に止まっている。詩としての真価については、いかにしても満足のできる承諾をあたえ得ない。なぜならばこの種の魅力は、皮膚の表面を引っ掻《か》くような、軽い機智的のものに止まり、真に全感的に響いている、詩としての強い陶酔感や高翔感やを、決して感じさせることがないからだ。詩が全感的にあたえる強い魅力は、常に必ず音律美に存している。故に音律美のないこの種のものは、詩として末流のものにすぎないのだ。
 実に今日の我が詩壇は、この種の印象的散文によって充満している。人々は自由詩の名によって、直ちにそれを聯想するほど、一般に広くこれが普遍している。実際音律美の殆ど欠けている口語によって、いくぶん詩らしい文学を書こうとすれば、これより外に行く道はないかも知れない。この点に於ては、著者も同様の仲間であり、自分の非難を自分に向けている一族である。だがそれにもかかわらず著者がこの非難の声を高くするのは、実に今日の我が詩壇が、詩の真に何物たるかを知らずにおり、誤って虚偽のものを正と信じているからである。最も愚劣千万なのは、人々がこの種の似而非《えせ》自由詩(印象的散文)に見慣れた結果、それを以て新しき詩の正道で
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