の詩たる面目を保持しようと考えている。どうするかと言うに、言語の表象する聯想《れんそう》性を利用して、詩を印象風に描き出そうというのである。即ち例えば「春が馬車に乗って通って行った」とか、「彼女はバラ色の食慾で貪《むさぼ》り食った」とか、「馬の心臓の中に港がある」とかいう類の行句であって、近時に於ける自由詩の大部分は、たいていこの種の詩句を、五行十行にわたって連続させたものである。著者はこの種の詩を称して、かつて「印象的散文」と命名した。なぜならその詩感は、何等音律からくる魅力でなくして、主として全く語意の印象的表象に存するからである。
 そこで第一に問題なのは、この種の文学が果して詩であるか否かと言うことである。これに対して吾人は、その或る点を十分に承諾する。確かに、すくなくとも本質上で、これ等もまた「詩の一種」である。なぜならそれは印象を印象として描いてるのでなく、主観の感情の意味によって、それを情象している[#「情象している」に丸傍点]からである。そして情象するすべてのものは――例え音律美の全くない散文でも――吾人の新しき定義によって「詩」と認める。しかし吾人の認定は、単にその点
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