、詩が詩であるとして考えられた。(したがって「散文」という語は、その形式の故に移されて、内容上での「非詩」を指してる。所謂「散文詩」という言語の矛盾は、この内容と形式との、言語上の混乱から生じているのだ。)そもそも不思議は、古来すべての詩の発生が、何故《なにゆえ》にかかる機械的なる、法則されたる韻律の形式を取ったかと言うことである。
 これに対する答解は、しかし極《きわ》めて簡単である。だれもよく知る如く、詩は昔に於て音楽と共に――おそらくは尚舞蹈と共に――節《ふし》づけされた手拍子、もしくは楽器に合せて歌われたものである。ゆえに詩の発生に於ける形式は、必然に音楽や舞蹈やと一致したリズムの機械的反復を骨子としている。そしてこの発生に於ける形式が、そのまま後代にまで伝統され、後に修辞学の進歩によって、今日の韻文となったものに外ならない。しかしながら元来言えば、詩が既に音楽から独立し、純然たる文学となった今日、尚《なお》かつ原始の発生形式たる、韻律《リズム》の機械則を守る必要はないであろう。何故に我々は、今日尚アカデミックな詩学を有し、韻律学の煩瑣《はんさ》な拘束を持っているのか。
 今日
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