し彼等にあっては、詩操の宗教感について言われる象徴と、表現の観照について言われる象徴とが、認識不足の漠然たる霧の中で、曖昧に混同していた為である。しかしながらとにかく、彼等は近代詩に象徴の自覚をあたえ、爾後《じご》の詩派に感化と暗示とをあたえたことで、永く記念さるべき功績を残している。故に彼等の「象徴派」は亡《ほろ》びても、象徴主義そのものが不易であること、あたかも「浪漫派」と浪漫主義の関係に同じである。
最後に注意すべきは、最近の新しい小説(特に仏蘭西《フランス》等の短篇小説)が、描写に於て著るしく象徴的になって来たことである。一方で詩が自由詩となった為に、詩と小説とが極めて接近し、外観に於て殆《ほとん》ど区別がつかないようになってきた。しかしながら区別は、やはり判然とせねばならぬ。詩は単に象徴の故に詩でなくして[#「詩は単に象徴の故に詩でなくして」に丸傍点]、情象の故に詩なのである[#「情象の故に詩なのである」に丸傍点]。
丁寧に言えば、象徴が知的の「頭脳《ヘッド》」によってされないで、主観の感情によって温熱されたる、心情《ハート》の意味としてされねばならない。そうでなく、象徴
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