、西洋の詩人が近代に至って始めて到達した真の主観的|抒情詩《じょじょうし》を、開国三千年の昔に於て発達させ、西洋人が最後に登り得た象徴の絶対境へ、逆に昔から平気で坐り込んでいる民族である。(丁度西洋と日本では、山と谷があべこべ[#「あべこべ」に傍点]に逆転している。)
此処で象徴の本意を明らかにするため、その代表的な日本の芸術について、大略の説明をあたえてみよう。例えば能がそうである。日本の能は、西洋の写実的なドラマや活動写真の類とは、根本から表現の精神がちがっている。西洋の演劇は舞台に於て、背景にも、人物にも、挙動にも、事実をそのまま写実的に映している。甚《はなは》だしきは、舞台に実物の馬を走らせたりする。然るに日本の能にあっては、かかる形体上の写実を見ないで、意味が全体として感じらるべく、第一義感的なものを強調する。例えば能にあっては、歩行者が写実的な歩調をしないで、歩行それ自身の印象と気分をあたえるべき、或る芸術的な「歩く人」を造形している。また能に於ける「悲しむ人」は、形体の上で涙や悲歎《ひたん》を見せるのでなく、意味としての気分の上で、悲哀の心境を現わすのである。これをかの
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