忠実に写生しないで、物をそれの全体から、本質に於て直覚してしまうのである。
 この全体と部分に於ける、認識の様式観を説明するため、次にベルグソンの比喩《ひゆ》を借りて来よう。実にベルグソンの哲学は、この点に於て絶対観を高調している。曰《いわ》く、ノートルダムの寺院を写す画工は、その建築の部分について、個々の一つ一つの印象をスケッチし、後にこれを綜合《そうごう》して一つにしても、決して寺院そのものの真相を、全景的に描出することはできないだろう。真に寺院の実景を描こうと思えば、個々の一々の部分を見ずして、建築全体について直観せねばならない。また吾人《ごじん》は、一篇の詩をずたずた[#「ずたずた」に傍点]に切り離し、個々の部分的な章句を集めて、そこから全体の意味を綜合しようと考えても、始めにその詩を読んでいない限りには、到底認識ができないのである。故に部分をいかに無数に集めても、それの綜合から全体は知覚されない。全体としての意味を知る方法は、ただ直観するのみであると。(『形而上学への序説』引用)
 このベルグソンの認識論が、直ちに芸術で言われるのである。自然主義の写実論や、その他の一般小説家
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