う一度根本的な駁撃《ばくげき》を加えておこう。芸術がもし、実にこの仕方で行くならば、芸術家は主観を有する人間でなく、無機物の写真器械と同じことだ。第一かくの如くば、表現は何を語り、何を意味しようとするのか解らない。科学といえども、単に「有るがままの世界」を「有るがままに見ている」のでなく、事実や現象の背後に於て、物質の法則する普遍の原理を見ようとするので、此処《ここ》に即ち科学の科学たる「意味」があるのだ。芸術の本質も同様であり、この現象する人生の背後に於て、何等かの深遠なる意味を掴え、それを表現することに意義があるのだ。自然主義の説く如くば、芸術はノンセンスのノンセンスにすぎないだろう。
それ故《ゆえ》に芸術の主眼点は、単に個々の事実や現象やを、無意味に書き並べることにあるのでなく、むしろこれ等の背後にある、真の「意味そのもの」を直覚し、直ちにこれを表現することに無ければならぬ。ではこの種の表現をするために、どんな認識の手段を取ったら好いだろうか。それには第一、自然主義的な観察を捨ててしまい、全くそれと反対なる、別の認識によらなければ駄目である。換言すれば、対象に於ける一々の部分を
前へ
次へ
全334ページ中197ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング