の詩にあっては、言語が概念として使用されず、主観的なる気分や情調の中に融けて、それ自ら「感情の意味」を語っていることである。これに反して似而非の詩は、言語が没情感なる概念として、純に「知性の意味」で使用されてる。(ニイチェの哲学詩と他の学術の哲学とを、この点に於て比較してみよ。)
 されば詩的表現の特色は、要するに言語が「知性の意味」で使用されず、主として「感情の意味」で訴えられているということの、根本の原理に尽されている。詩が音律を必要とする所以《ゆえん》のものも、畢竟《ひっきょう》この原理に存するので、決して韻律のために韻律の形式を求めるのでない。ただ自然の結果として、それが「韻文的なもの」に成るというにすぎないのだ。要するところは音律が、言語としての最も強い感情を出し得る故に、それが詩の形式を決定して、常に第一義的なものと考えられてる。しかし音律以外の要素に於ても、言語は「感情の意味」を語り得る。即ち今言う通り、語義を概念として使用しないで、主観の感情に融かすことから、語感に於ける気分や情調を表現し得る。そして近代に於ける多くの詩(象徴派、写象派、未来派等)が、特にこの点を重要視
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