れ等の文学は、単に「詩の形式を借りた」ところの、別種の者に属する如く思われる。
それ故《ゆえ》に詩の形式は、外部から借用されたものでなくして、内部から生み出されたところの、必然のものでなければならない。換言すれば詩とは、詩的な内容が詩的の形式を取ったもの[#「詩的な内容が詩的の形式を取ったもの」に丸傍点]でなければならない。では「詩的な内容」とは何だろうか。何がそもそも詩的であり、何が詩的でないだろうか? この問に答える前に、吾人は世俗の誤見に対して、逆に反駁《はんばく》しておかねばならぬ。なぜなら通俗の見解は、しばしば詩人を以て花鳥風月の徒と解し、吾人を一種の風流扱いにするからだ。実に我々詩人の心外に堪えないことは、今日の文壇や雑誌社すらが、詩の何物たるかを全く知らず、吾人に嘱するに自然の風物吟詠や、四季の変化に際する美文的随筆の類を以てすることである。かつて我々の昔の詩人は、好んでかかる風流閑雅の趣味を愛し、自然の詠吟を事としていた。だが今日の時代に於ける僕等の詩人が、いつまで同じことを繰返す義務がどこにあるか。そもそも世間は、あまりに日本人的なる、あまりに俳諧《はいかい》的なる
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