「詩人」の観念から、いつまでたったら僕等を解放してくれるのか。
さて「詩的なもの」は何だろうか? これについてはずっと前に、既に他の章で一言しておいた。即ち何が詩的であるかは、全く個人の趣味によって決定する。そこで昔の日本詩人は、季節の変化や自然の風物を詩的と感じた。だが今日の詩人たちは、社会や人生の多方面から、無限に変った詩的のものを発見している。例えば或る社会的な詩人たちは酒場や、淫売窟《いんばいくつ》や、銀行や、工場や、機械や、ギロチンや、軍隊や、暴動やから、彼等の詩的な興奮を経験して、そこに新しい詩材を求めている。そして他のより[#「より」に傍点]瞑想《めいそう》的な詩人たちは、人生や宇宙の意義について特殊な詩的なものを哲学的に観念している。
されば詩的の本質は、個人の側にあって物の側に存しない。もし見る人が見るならば、宇宙に於ける一切の事物や現象やは、悉《ことごと》く皆詩的なものに感じられそうでないものは一も無かろう。実に詩人の為《な》すべきことは、人の無趣味とし、殺風景とし、俗悪とし、*プロゼックとするものに就いてさえ、新しき詩美を発見し、詩の世界を豊當にして行くことに
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