ムを破壊することに主張を持っている。この形式主義と自由主義との主張については後に公平な批判を以て見ようと思う。
[#ここで字下げ終わり]


     第二章 詩と非詩との識域


 前章に述べた通り、詩とは音律本位の文学であり、自由詩をも、定律詩をも、共に包括し得る意味の韻文――本質観としての韻文――である。しかしながらそうだとすれば、此処《ここ》にまた新しい疑問が起ってくる。もし単に詩の特色が、それだけの点にあるとすれば、いやしくも音律を以て本位とし、節づけられて歌われたすべてのものは、文学である限りに於て、必然に皆詩と言わねばならないだろう。然るに世の中には、実際そうでないものがある。例えばソクラテスが獄中で書いたイソップ物語の韻文訳や、アリストテレスが書いた韻文の論理学やは、形式上に於て確かに音律本位であり、文字通りの正しい韻文であるけれども、吾人《ごじん》はこれを詩と呼ぶべく躊躇《ちゅうちょ》する。またかの鉄道唱歌とか、地理の諳誦《あんしょう》のためにされた新体詩とか、道徳や処世の教訓にされる和歌の類とかも、同様に形式上のみの韻文であって、実質上から詩というべく適切でない。こ
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