於ては、遠く古事記等にも見える如く、詩と散文とが入り混って、両方から同時に起って来たのだ。
 故《ゆえ》に西洋では、散文がすべて詩に精神し、詩的精神の母源の上に立っているのに、日本にはこの発育上の関係がなく、詩と散文とが別々に並行し、交互に没交渉で進んで来ている。故に近代の欧化した日本――果して真に欧化であるか?――に於ても、文壇の事情は同様であり、詩と散文とが風馬牛《ふうばぎゅう》で、互に何の交渉もなく、各自に別々な道を歩いている。おそらくこの二つの並行線は、永久にどこまで行っても並行線で、無限に切り合う機会がないかも知れない。なぜと言って今日でさえ、我々の詩人と小説家との間には、どうしても理解できない或るものが挾《はさま》っているから。
 日本の文学と西洋の文学とが、現代に於てさえ如何《いか》に特色を異にするかは、何よりも西洋の小説家と日本の小説家とを、人物的に印象することによってすぐ解る。西洋の文学者等は、ゾラでも、ツルゲネフでも、トルストイでも、ストリンドベルヒでも、小説家であるにかかわらず、人物的に「詩人」と言う感銘を強くあたえられる。然るに、日本の小説家には、そうした風貌《
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