かも日本にあっては、何よりもこの「浪漫派前派の精神」が必要なのだ。一切の文明と芸術とは、このアルファベットの第一音から、改めて建設されねばならないのだ。
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     『詩の原理』の出版に際して


 誤解ということは、どんな場合にも避けがたいことである。だが僕の詩論のように、一般からひどく誤解され、見当違いの反駁《はんばく》や抗議を受けたのはすくなかろう。ずっと先年来から、僕は旧「日本詩人」及び「近代風景」誌上で、自分の自由詩論を発表して来た。もとより断片のものであり、体系ある論文ではないけれども、自分としては常に一貫して、主旨のあるところを略説したつもりであった。
 ところが僕の自由詩論は、諸方でいろいろな人から反駁と抗議を受けた。今記憶している限りでも、すくなくとも五人の詩人が、公開の紙上で僕の詩論に挑戦《ちょうせん》している。僕は常に注意して、これ等の人の議論を読んでる。にもかかわらず、かつて一度もこれに対し、自ら弁明したことがない。僕の論敵に対する態度は、常に一貫して沈黙――黙殺とは言わない――である。何故だろうか? すべての挑戦者等が、思想の立脚する根本点で、僕をまるきり誤解しているからである。
 すべて弁駁とか論戦とか言うことは、相互の意見が一致せず、思想に相違点を発見するとき始めて起ってくる問題である。然るに僕の場合では、読者がまるで僕の言語を理解せず、僕の思想の主題するところを知らないで、意外な思いがけない解釈から、勝手な言いがかりをしてくるのである。例えば僕が、詩は音律要素を重視せねばならないと説くに対し、多くの意外な挑戦者等が、否、汝《なんじ》の言うところは誤っている。詩は音律を重視すべきであると言って、あべこべに僕を説教してくる類《たぐ》いである。こういう挑戦者(?)に対して、僕の常に答えようとするところは、何の反撃でもなく、弁明でもなく、単に却《かえ》って賛成の意を表するのみだ。即ち、僕は、これ等の人々に答えて言っている。「全く、君の言う通り。すべて同感至極です。君の説くところは、僕に対する反駁でなく、実に、僕の説の裏書きであり、僕の論文の繰返しにすぎません。」
 従来の記憶によれば、僕の詩論の反対者は、たいていこの類の読者である。即ち僕を理解せず、全く反対の意味に解釈しているのである。いったいどうしたわけで、僕は
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