こんなにも人々から、意外の誤解をされるのだろうか。先日も北原白秋氏宅で小会のあった時、同席した竹友|藻風《そうふう》氏が、僕の詩論について反対の攻撃を向けられたが、その意味から推察すると、まるで僕を誤解されてるのに驚いた。北原白秋氏さえも、しばしば同じような誤解を、僕の詩論に対して抱《いだ》いてるように思われる。それで「近代風景」の小会に列席すると、僕はまるで四面攻撃の中心点に立ってるようで、八方から詩論について非難されるが、僕としては、いつも意外の感に耐えないのである。(そんなわけから、一時僕は、「近代風景」の誌上に於て、自分の「評判の悪い――皆に嫌がられる――詩論」の発表を遠慮しようとさえ思った。)
僕はもちろん、思想上の敵を持つことを恐れはしない。否、敵の存在は自分にとっての名誉である。しかし誤解による敵だけは持ちたくない。僕の考えるところによれば、竹友氏でも北原氏でも、詩論上の立場に於ては、すくなくとも僕と矛盾する理由がない。詩論家としての僕は、決して「近代風景」の異端者でなく、水に油をさしたような反対党員ではないつもりだ。にもかかわらず、この雑誌の一味からは、僕が異端者のように考えられ、多くの思いがけない読者からは、常に無理解の反感を持たれたりする理由は、つまり言って、僕の論文に、何かの著るしい欠点があり、説明の不充分や論述の混乱から、読者を誤解させるものがあるからである。
それで僕はこの点に自ら考え及んだ時、論客としての無能さと、表現的才能の欠乏を自覚し、自ら大いに悲観せざるを得なくなった。人がいやしくも思想を発表して、読者にそれが理解されないようだったら、文章家として落第以上の無資格である。しかし一方から考えると、そこにはまた特別の事情があって、あながち僕の低能のせい[#「せい」に傍点]でもない。第一の理由としては、僕の詩論に於ける根本思想が、尋常一様の常識でなく――遙《はる》かに常識を超越して――複雑している為である。この点で言うならば、多くの詩人の自由詩論は、僕の知る限り、たいてい小学生程度の常識論にすぎないので、殊《こと》さら論ずるまでもなく、だれにも解りきってることなのである。そこで或る読者等が、もし小学生の常識論しか理解できない程度の、低い理性の頭脳しか持っていないとするならば、僕の高等詩論は難解であり、必然に誤解を避けがたくなる。
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