うした相対上の関係でなく、気質の絶対的な本性に根づいたものだ。日本には原始からして、一も貴族主義や形式主義が発生してない。第一日本の詩の歴史は、無韻素朴な自由詩に始まっている。(一方で西洋の詩は、荘重典雅な形式的の叙事詩《エピック》に始まっている。)日本では古来からして、あらゆる文化が素朴自由の様式で特色している。西洋の文化に見るような、貴族的に形式ぶったものや、勿体《もったい》ぶったものや、ゴシック風に荘重典雅のものやは、一も日本に発育していない。皇室ですらが、日本は極《きわ》めてデモクラチックで――特に上古はそうであった――少しも形式ぶったところがなく、陛下が人民と一所に起臥《きが》しておられた。一方に西洋や、支那《しな》や、エジプトやでは、荘重典雅な皇居の中で、あらゆる形式主義の儀礼の上に、権力意識の神聖な偶像が坐っていた。
 だから日本には、外国に見るような堂々たる建築や、壮麗にして威圧的な芸術やは、歴史のどこにも残っていない。(すべての建築美術は、本来リズミカルのものであり、権力感情の表現されたものである。)日本では皇室や神社の如き、最も威圧的に荘厳であるべき物すら、平明素朴の自由主義で様式されている。殆《ほとん》ど文化のあらゆる点で、日本にはクラシズムが全くなく、そうした精神の発芽すらない。日本に於ける形式主義は、すべて支那からの輪入であって、しかも外観上のものにすぎなかった。(支那人はこの点で、日本人と最も箸るしいコントラストである。)
 かく日本の文明が、上古から自由主義と素朴主義で一貫しているのは、民族そのものの本質がデモクラチックで、先天的に貴族主義の権力感情を持たないからである。しかもこうした日本人のデモクラシイや自由主義やは、西洋近代思潮のそれの如き、相対上の反動ではなく、絶対上の気質にもとづくものであるから、日本の過去の歴史には、決して外国に見るような革命が見られなかった。革命とは、自由主義やデモクラシイやが、他の貴族主義に対して挑戦《ちょうせん》するところの同じ権力感情の相対する争闘だから、始めからその権力感情の線外に居る民族には、もとより革命の起る道理がない。日本人は生れつき平和好きの民族で、自由や平等やの真精神を、相対上の主義からでなく、気質上の所有として持っているのだ。
 然るに西洋人は、この点で吾人《ごじん》を甚《はなは》だしく誤
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