的で、イデヤの理想観に走りすぎる。真に現実主義と言うべきものは、かかる一切の主観を有せず、憤りもなく憎みもなく、無私無感情の態度を以て――即ち真に科学の如く――客観について客観を見、観照のために観照をするものでなければならない。そして日本人の考えている文学観が、この点で西洋と別れてくる。日本人に於て見れば、ゾラやモーパッサン等の自然主義は、真の自然主義でないのである。
 故にかく考えれば、日本人こそ真に徹底的なる、気質的のレアリストであるだろう。西洋人は、本来言って現実主義の国民ではない。彼等の言う現実主義とは、理想主義に対する反語であって、同じ主観的イデヤの線の上で互に向き合っている対立である。故にその一つの線を取ってしまえば、両端に居る二人の者は、共に足場を失って落ちてしまう。然るに日本のレアリストが立っている地位は、こうした相対の線上でなく、それとは全く線のちがった、全然別の絶対地である。即ち日本人は「気質的のレアリスト」で、西洋人は「逆説されたレアリスト」である。故に日本人の立場で見れば、西洋のレアリズムや自然主義やは、一種のロマンチックな理想主義――逆説された理想主義――で、真の本質的な現実主義と言うべきでない。真の徹底したるレアリズムは、俳句でなければならないと言うことになる。
 されば日本の文学には、昔から「俳句」があって「叙事詩」がない。何よりもあの逆説的な、権力感的な、貴族主義の精神がないのである。日本人は、先天的にデモクラチックで徹底したる自由主義の民族である。この点でも日本人は、西洋人と思想の線を異にしている。

        3

 西洋の近代思潮が叫ぶデモクラシイは、明らかに貴族主義の相対である。即ち貴族主義と民衆主義とは、同じ一つの線の上で、互に敵視しながら向き合っている。しかもデモクラシイが求めるものは、貴族主義に代わっての政権であり、民衆自身の手に権力を得ようとする叙事詩的《エピカル》な精神の高調である。そしてあの自由平等の高い叫びは、それ自ら権力への戦闘意識に外ならない。故《ゆえ》に彼等のデモクラシイは、言わば「逆説されたる貴族主義」で、本質上には同じ権力感の線で、他の反対者と向き合っているのだ。自由主義もまた同様であり、彼等にあっては形式主義と相対し、同じ叙事詩的《エピカル》の線に立っている。
 然るに日本人のデモクラシイは、そ
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