冷酷な真実《レアール》を暴露させようとするところの、反主観への逆説である。故に彼等の作品は、常に人生に対して憎悪《ぞうお》し、意地|悪《あ》しき冷酷の眼を以て、社会の「真実」を見ぬこうとする熱意に燃えている。かの自然主義の一派が、常に「科学の如く」と言った意味も、実にこの同じ精神を語っている。即ち科学的唯物観の没人情と、鉄石のように冷酷な観察眼とで、あらゆる真実をひっぺがしてやろうとする深い敵意が、言語それ自体の語韻の中に含まれている。
これに反して、日本の文壇にあった自然主義や、その他のレアリズムに属する文学は、本質的に「人の好い文学」であり、単に客観のために客観し、有る世界を有る現状で見ようとするので、何等主観上に於ける哲学がなく、したがって人生に対する挑戦《ちょうせん》がない。彼等は単にお人好しの小説家で、真実を見ぬこうとする意地悪さもなく、科学的なる残忍さも持っていない。彼等が描こうとする世界は、現実を現実として享楽し、趣味の訓練によって生きて行こうとするところの、茶道的、風流的なる東洋の生活で、本質に於て全く俳句と一致している。故に日本自然派小説の典型であり、その最も優秀なものと定評された徳田秋声の作の如き、全くその*写生文的俳句趣味で特色されている。そして他の多くの小説が、より劣等な価値に於て、悉《ことごと》く皆俳句である。
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* 写生文というのは、ホトトギス派の俳人によって創始された文学で、有る世界を有る現状のままに於て、全然没主観で書くことを主張した。そこでこれが自然主義の文学論と、まったく一緒になってしまった。
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さればレアリズム(現実主義)という言葉が、西洋風の文学観で言われる限り、日本には真のレアリズムがないのである。第一レアリズムという言語が持っている、特殊な冷酷感的な、真実をあばき出そうとする語感は、日本のどんな小説にも感覚されない。日本の写実小説は、レアリズムというべきでなく、もっと好人物的なる、俳句的観照本位のものである。しかしながら言語の意味から、その特殊な語感を除いて考えれば、日本人の文学が持っているものこそ、真の徹底したる意味の現実主義であるか知れない。なぜならば西洋の所謂《いわゆる》レアリズムは、客観というべくあまりに主観的で、エゴの哲学を強調しすぎる。そしてこの故にまた観念
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