に向って発達する外はないだろう。なぜなら芸術は絶対主義のものであって、すべての相対的抽象観念を超越したところの、真の具象的・象徴的のものであるから。しかしながらまた、こうした立場に立つ日本人の芸術が、始めから西洋のそれと特色を異にすることも明らかである。我々の文明情操には、始めから相対上の主観と客観が無いのであるから、芸術上に於ても、勿論《もちろん》また西洋に於けるような主観主義と客観主義、即ち抒情詩的精神《リリカルソート》と叙事詩的精神《エピカルソート》の対立がない。日本で考えられている芸術上の主観主義と客観主義とは、抒情詩《リリック》と叙事詩《エピック》の対立でなくして、実に和歌と俳句との対立を意味するのである。
日本の俳句が世界に於ていかに特殊な文学であり、いかにレアリスチックな詩であるかと言うことは、前に他の章で述べた通りであるが、もう一度改めて言っておこう。何よりも著るしいのは、俳句の立脚する精神が、西洋の叙事詩《エピック》と正反対に立っているということである。叙事詩《エピック》の精神は「主観に対する反語」であり、否定によっての高翔《こうしょう》なのに、俳句はむしろ「没主観への徹入」を精神とし、東洋的虚無感――それが西洋のニヒリズムと、全然反対のものであることに注意せよ。――に浸ろうとする。西洋の叙事詩《エピック》の精神は、科学の客観主義と共通であり、自然を肯定するのでなく、自然を征服しようとするところの、主観的権力感の現われである。然るに俳句はこれに反し、自然の中に没入し、自然と共に楽しもうとするのであって、科学や叙事詩の立脚する客観主義とは、全然精神が異っている。俳句は言わば、詩に於ける絶対的客観主義だ。それは反動的でなく、日常生活の現実している平凡事を、その平凡事として楽しんでいる。
されば日本に於ける多くの文芸、特に客観主義の文芸は、本質的に皆俳句の精神と共通している。現時の文壇にあっても、日本の文学がいかに俳句臭味のものであるかは、何よりもその作品をみればすぐに解る。すくなくとも日本の末期自然主義やレアリズムやは、西洋に於けるそれと異質的にちがっている。西洋の文学に於ける自然派等のレアリズムは、明らかに叙事詩的《エピカル》の精神から出たものである。即ちそれは、浪漫主義――抒情詩的《リリカル》のもの――への反動であり、愛や人道やの情緒を憎んで、
前へ
次へ
全167ページ中150ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
萩原 朔太郎 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング