神の反動に外ならない。(科学が詩的精神の反語であることは前に述べた。)(「人生に於ける詩の概観」参照)
されば西洋に於ける一切の文明思想は、結局言って「主観を肯定する主観精神」「主観を否定する主観精神」との、二つの主観精神の対立に外ならない。そして芸術がまたこの二つの精神によって対立されている。例えば詩に於ては、前に言った「抒情詩」と「叙事詩」の関係がこれである。そしてこの抒情詩的精神《リリカルソート》と叙事詩的精神《エピカルソート》とは、他のすべての芸術に共通している。即ち前に説いたように、小説に於ける浪漫主義と自然主義とが、この同じ関係の対立である。美術にあっては、一方にミレーやゴーガン等の、抒情派があり、一方にピカソやセザンヌ等の、歪《ゆが》んだ科学的の叙事詩派がある。音楽がまた同じく、スイートでメロディアスの抒情的音楽と、荘重でリズミカルな叙事詩的音楽とが、昔から常に対立している。
かくの如く西洋の文明は、抒情詩的精神《リリカルソート》と叙事詩的精神《エピカルソート》との対流であり、主観に正説する主観的精神と、主観に逆説する主観的精神との二つの者の相対に建設されている。そこで吾人《ごじん》は、この前の者を称して「主観主義」と言い、後の精神を称して「客観主義」と言う。西洋の文明、及びその芸術に於て考えられる主観と客観の関係は、すべてこの意味の観念に外ならない。即ちその客観と言うも、本来主観の逆説であり、相対関係の線上に立つものに外ならない。然るに日本の文明と芸術とは、始めからこの相対を超越し、絶対の立場で客観や主観を考えている。日本人の文明思潮は全然外国とちがうのである。
日本人の文明観では、自我意識が常にエゴの背後に隠れている。なぜなら真の絶対自我は、非我と対照される自我でなくして、かかる相対関係を超越したところの、絶対無意識のものでなければならないから。(故に前にも他の章で言った通り、日本の会話では「私」の主格が省略される。)然るに宗教観や倫理観やは、本来エゴイズムのものであって、自我意識の強調されたものなる故、日本人にはこの種の情操が本性していない。日本人はすべて超宗教的、超道徳的である。したがってまた日本人は、これに対する反動の懐疑思想も持っていない。即ち日本には、古来いかなる哲学も科学も無いのである。
こうした日本人の文明は、ひとえにただ芸術
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