一つの越えがたい国境から、地球は永遠に対立している。何故《なにゆえ》に我々は、いつまでも此処《ここ》に留まり、国境を越えて行くことができないのか。太陽は照り、氷山は流れている。時は既に正午の線を過ぎたけれども、万象は死んで動かず、地上に一の新しい変化もない。永遠に、永遠に、東のものは東を向き、西のものは西を向いている。いかなれば世界の景色は、かくも単調にうら悲しく、よそよそ[#「よそよそ」に傍点]しげに見えるのだろう。

 しかしながら我々は、既にこの単調から鬱屈《うっくつ》している。今や眠れるものの上に、新しき欲情は呼び起され、世界の変化は近づいている。実に吾人《ごじん》が求めるものは、詩に、文学に、芸術に、文明に、すべてに国境を越えて行こうとする、東からの若い精神である。しかもこの「東方の巡礼」は、既に幾度か出発し、西にあこがれて行き、そして国境のあたりをさまよい、空《むな》しくまた家に帰って来た。幾組も幾組も、同じ巡礼の一団が、後から後から出かけて行き、空しく皆道に迷って帰ってきた。かくて永久に、日本は昔ながらの日本であり、地上に一の新しき変化も起っていない。退屈なるかな! 何故にいつまでも、吾人はこの鎖国された島国から、一歩も出ることができないのか?
 思うに過去の巡礼等――詩人や、文学者や、思想家や――は、その西方への道を誤っていた。彼等は狂った磁石をもち、方角を錯覚して、空しく西洋の幻像を追いながら、迷路の中に道を失って帰ってきたのだ。吾人の測量された地図によれば、日本から世界の公道に通ずる道は、ただ一つの直線されたものしかない。他はすべて迷路であって、無数の複雑した岐路の中に、人を惑わすものにすぎないのだ。吾人はこの書の結論として、最後にこの点を明らかにし、新日本の詩と文明とが求めるものを、本質に於て啓示しておかねばならない。

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 西洋文明の様式は、宗教(神話)や道徳に対するところの、科学や哲学の懐疑思想に出発し、かつこの主観精神と客観精神との、不断の対立から成立している。然るに懐疑するということは、既に有する信仰を失うことから、別の新しき信仰を求めようとするところの、人間性の止《や》みがたき熱望に動機するのである故《ゆえ》に、西洋文明に於ける客観的精神の本質は、本来「主観への逆説」であり、詩を否定しようとするところの、別の詩的精
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