解している。西洋人の思惟《しい》によれば、日本人は戦争好きの国民であり、軍国主義と武士道の典型であると考えられている。もちろん近年に於ける日本は、政府の方針から多少軍国的に導かれた。またその同じ教育から、多少|或《あるい》は国民が好戦的になったか知れない。しかし国民性の本質が、内奥に於て如何《いか》にその外観とちがっているかは、かの日清《にっしん》・日露等の役《えき》に於ける兵士の軍歌(雪の進軍と、此処《ここ》は御国を何百里)が、歌曲共に、哀調悲傷を極めているに見ても解る。一方でドイツの軍歌「ラインの守」が、いかにリズミカルで勇気に充ち、威風堂々としているかを見よ。日本人がもし真に好戦的だったら、ああした哀調悲傷の歌曲は、決して行進の軍歌として取らないだろう。
さらにより[#「より」に傍点]大きな誤謬《ごびゅう》は、日本人の武士道に対する偏見である。確かに日本人の武士道は、社会の或る一部である、少数の武人の中に発達した。それは確かに著るしく、世界的に異常のものであるかも知れない。けれども一般の民衆は、この点の教養から除外され、全然武士道的な精神をもっていない。そしてまたこの点でも、日本人は世界的に著るしく、特殊な例外に属している。なぜならば西洋では、今日|尚《なお》民衆がその「紳士道」を有している。そして紳士道は、正しく騎士道の変化であって、言わば資本主義の下に近代化した武士道であるからだ。然るに日本に於ては明治の変革と共に武士が廃《すた》り、同時に武士道そのものが消えてしまった。なぜなら日本の民衆は、この点での教養を過去に全く持たなかったから。日本の武士道は、少数の武士にのみ特権されて、西洋に於ける如く、平民の間に普遍してはいなかったのだ。
何故に日本では、武士道が普遍しなかったろうか。これ日本に於ける戦争が、古来すべて内乱であり、人種と人種との衝突でなく、少数武士の権力争いにすぎなかったからだ。これに反して外国では、戦争がすべて異人種との争いであり、負ければ市民全体が虐殺されたり、奴隷に売られたりされねばならなかった。故に支那や西洋では、都市がすべて城壁に囲まれており、市民は避けがたく戦争に参加した。のみならず一般の農民や民衆やも、常に外征に徴発され、兵士として戦場に送られねばならなかった。
故に西洋に於ては、武人的精神が早くから民衆の間に普及していた。農
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