る。西洋近代の詩はもとより、日本の原始の自由詩でも、すべて詩としての魅力があるところには、必ず特殊の音律美がある。かの幕末の志士等が作った非芸術的な慷慨《こうがい》詩でも、やはり漢詩としての音律美をもち、それによって吾人をエピカルに陶酔させる。最近の日本詩壇に於ける詩の如く、殆ど全く音律美がなく、朗吟にさえ堪えないようなものは、決して「自由詩」という名称に価しない。もし現詩壇の常識が、この音律美のないことを以て、自由詩の自由詩たる所以《ゆえん》であると考えているなら――*確かにそう考える人がいる――自由詩ほど愚劣にして意味のない文学は宇宙にないのだ。
要するに今日の所謂自由詩は、真に詩と言わるべきものでなくして、没音律の散文が行別けの外観でごまかしてるところの、一のニセモノの文学であり、食わせものの似而非《えせ》韻文である。著者はあえて大胆に、正直に、公明正大に――著者自身を含めて――断言しよう。今日ある如き所謂自由詩は詩としての第一条件を欠いている駄文学で、時《タイム》の速い流れと共に、完全に抹殺さるべきもの[#「抹殺さるべきもの」に丸傍点]であると。しかしながらこの抹殺《まっさつ》は、最近の口語自由詩のみに限られている。少し以前にあった文章語の自由詩は、必ずしも同じ系類に属しない。なぜならそれらの文語詩には、すくなくとも朗吟に堪える音律があり、よりきびきびとした、弾力と屈折のある、魅力に富んだ美があったから。すくなくとも文語詩は、自由詩と言い得る程度の有機的音律美を有していた。
此処に於て問題は、文章語と口語との、音律上に於ける特色の比較に移ってくる。そしてこの比較で言えば、すくなくとも音律上で、文章語は遙《はる》かに口語に優《まさ》っている。試みに両者を比較してみよ。口語の「である」に対し、文章語の「なり」が如何《いか》に簡潔できびきびしているか。「私はそう信ずる」と「我れかく信ず」で、どっちの発音に屈折や力が多いか。「そうであろう」と「あらん」との比較で、どっちが音律的に緊張しているか。すべての比較に於て、文章語は弾力に富み、屈折と変化を有し、簡潔できびきびしている。反対に口語は、音律が散文的で、緊張を欠き、重苦しく無変化でぼたぼたしている。両者の音韻に於ける切れ味《あじ》は、すくなくとも鋭利な刃物と鈍刀ぐらいの相違がある。
そもそもこの二つの言語に於
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