。ただ感じられるものは、単調にして重苦しく、変化もなく情趣もない、不快なぬるぬる[#「ぬるぬる」に傍点]した章句ばかりだ。そして或る他の別な詩人等は、強《し》いて言語に拳骨《げんこつ》を入れ、田舎《いなか》政治家の演説みたいに、粗野ながさつ[#「がさつ」に傍点]な音声で呶鳴《どな》り立てている。或《あるい》はもしその人たちが、かかる種属の詩を以て真の「叙事詩的《エピカル》のもの」と考えているなら、一つの笑殺すべき稚気である。今日の所謂《いわゆる》プロレタリア詩の如き、概《おおむ》ね皆この類のものであるから、特に詩壇のために啓蒙《けいもう》しておこう。
真の芸術的価値に於ける叙事詩《エピック》は、決してかかる粗雑なる、暴力団的激情のものではない。ゲエテのファウストでも、ミルトンの失楽園でも、そこには人間的非力を以て、神や運命に挑戦《ちょうせん》している思想の深い哲学が語られており、それによって、人間性の地獄から呼びあげてくる真の力強いヒロイックの権力感を高翔《こうしょう》さすのだ。そしてあらゆる叙事詩《エピック》、及び叙事詩的《エピカル》なものの本質は、この種の深刻なる悪魔的|叛逆《はんぎゃく》感に基調している。田舎政治家の煽動《せんどう》演説におだてられて、中学生的無邪気の感激で跳《は》ね廻るような文学は、何等の叙事詩《エピック》でもなく叙事詩的《エピカル》なものでもありはしない。思想の点は別としても、第一にこうした詩は、真の高翔感的陶酔をあたえるべき、力強きエピカルの音律美を持たねばならぬ。そして詩に於けるこの魅力は、救世軍的大道演説の太鼓のような、がさつ[#「がさつ」に傍点]な雑音とは別物である。何等かそこには、しっくり[#「しっくり」に傍点]として心に沁《し》み、胸線の秘密にふれ、深い詩情の浪《なみ》を呼び起してくるようなもの、即ち音律としての「美」がなければならない。
実に驚くべきことは、今日の日本の詩に、一もこの音律美がないということである。その或るものは単調にぼたぼた[#「ぼたぼた」に傍点]とし、他の或るものはがさつ[#「がさつ」に傍点]に粗暴な音声をふり立てている。抒情詩的にも、叙事詩的にも、一も心に浪を起し、真の詩的陶酔を感じさせる自由詩がない。そしてこんな没音律の詩というものは、支那《しな》にも西洋にも、昔にも今にも、かつて見たことがないのであ
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