韻文には法則された律格がなければならない。
故に自由詩には律格が無ければならない。
この思想の大前提に於て考えられている「韻文」は、Bの図式による本質観の韻文である。(でなければ始めからこの命題は成立しない。)然るに次の小前提で観念されている「韻文」は、Aの図式による形式観の韻文である。かく韻文という言語が、一つの思想中で二つの別義に解釈されている。即ち彼等は、倫理学でいうMの重犯を犯しているのだ。故にその結論は、自由詩が自由詩たる為に定律詩でなければならないという如き、白馬非馬的の曲弁に導かれる。
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2
最近の日本詩壇は、実に自由詩の洪水である。到るところ、詩壇は自由詩によって氾濫《はんらん》されていると言っても好い。だがこれ等の自由詩――人々はそう考えている――が、果して真の意味の自由だろうか。換言すればこれ等の詩に自由詩の必須とすべき有機的の音律美(SHIRABE)が、実に果して有るだろうか? 吾人《ごじん》の見るところの事実に照して、正直に、大胆に真理を言えば、現にある口語自由詩の殆《ほとん》ど全部は、すべてこの点で落第であり、詩としての第一条件を失格している。何よりも最初に、著者はこれを自分自身に就いて言っておく。なぜなら著者自身が最初に失格している詩人であるから。実に著者の悲しむことは、自分の過去のあらゆる詩が――極《ご》く少数の作を除いて――一も真の音律的魅力を持たず、朗吟に堪えないことである。(著者はこの点を明らかにしておく。自分は常にどんな時にも、自己弁護や排他のために考えるのでなく、真理の公明正大を愛するために、邪説や詭弁《きべん》を憎悪《ぞうお》するのだ。故《ゆえ》に著者にとってはいやしくも正理を昧《くら》ます一切は――自分であっても他人であっても――悉《ことごと》く致命的にやっつけねば気がすまないのだ。)
しかし著者自身について悲しむより、一般の詩壇について見る時、この失望は尚《なお》甚だしい。実に現にある口語詩の大部分は、殆ど何等の音律的魅力を持っていない。だれの詩を見ても皆同じく、ぼたぼた[#「ぼたぼた」に傍点]した「である」口調の、重苦しい行列である。それらの詩語には、少しも緊張した弾力がなく、軽快なはずみ[#「はずみ」に傍点]がなく、しんみり[#「しんみり」に傍点]とした音楽もない
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