ような、前後矛盾した奇怪の思考に導かれる。そして他の人々は、反対に自由詩を低落させ、全く没音律の散文と化することに、それの徹底した主意がある如く考えている。そしてこの後の思考が、実際に於ていかに今日の詩壇を堕落させたかは、諸君の事実によく知るところであろう。
 今や諸君は、かかる邪説と蒙昧から解放され、一の判然たる認識に達しなければならないのだ。諸君の理性を透明にせよ! 自由詩がもし形式律の法則に支配されたら、それは何の自由詩でも有り得ない。しかも自由詩にして特殊な音律美がなかったならば、言語のいかなる本質上の意味に於ても、それは韻文と言い得ないもの、即ち本質上での散文(詩でないもの)である。畢竟するに自由詩とは、何等の法則された律格をも有しないで、しかも原則としての音楽を持つところの、或る「韻律なき韻律」の文学である。もし諸君にして、前の図解の意味が判明し、韻文等の言語に於ける二義の区別がよく解ったら此処《ここ》に言う「韻律なき韻律」「無韻の韻文」という語の謎々《なぞなぞ》めいた意味が解り、そして尚、自由詩に関する一切の原理が根本的に解明されてくるであろう。
 そこで吾人は、この明瞭《めいりょう》にされた認識から出発して、現詩壇の実情する自由詩を眺《なが》めてみよう。

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「韻文」「散文」という言語は、元来西洋から来たものであり、昔の日本にはないものである。日本の詩歌は原始から自由主義で、形式上に散文と極《ご》く類似したものであるから、こうした西洋風の形式観による対立は、我々の文学で思惟《しい》されなかった。故に西洋人が「詩は韻文の故に詩なり」と考えている時、日本人は昔から「詩は調べ[#「調べ」に丸傍点]である」と考えていた。「調べ」とは無形な有機的の音律であり、法則によって観念されないリズムである。だから自由詩の原理は、日本語の「調べ」という一語の中に尽きるので、ずっと昔から、すべての日本人が本能的に知りつくしている事である。然るに詩壇は自由詩の本体を日本に見ないで外国に見、彼の「韻律」や「韻文」の語を輸入し、これを半可通の理解で使用した為、却って知っている事が解らなくなり、自分の顔を他人に教えてもらうような、愚昧な混乱に陥ったのだ。

 所謂律格論者の思想は、次の推理式に示されている。
 自由詩は散文に非ず。即ち韻文でなければならない。

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