い、不規則にして自由律な文学を指定している。故にこの形式上の区別からみて、自由詩は明らかに散文に属しているのだ。けれども内容の上から見れば、自由詩は決して所謂散文(即ち小説や感想の類)と同じでない。また形式上から考えても、これ等の普通の散文と自由詩とは、どこかの或る本質点でちがっている。そしてこのちがうところは、一方が「描写本位――または記述本位――の文学」であるに対して、自由詩が音律美を重視する「音律本位の文」であるということである。
そこで韻文という言語の意義を、辞書的の形式観によって解釈せずして、より一義的な本質観によって解釈すれば、自由詩は正《まさ》しく韻文の一種であって、散文と言わるべきものでなくなってくる。つまり言えば自由詩は、不規則な散文律によって音楽的な魅力をあたえるところの[#「不規則な散文律によって音楽的な魅力をあたえるところの」に丸傍点]、一種の有機的構成の韻文[#「有機的構成の韻文」に丸傍点]である。そしてこの「有機的構成の韻文」と言うことが、自由詩の根本的な原理である。即ちそれは有機的である故に、形式律の法則によって分析されず、数学的の計算によって割り出されない。かの自由詩を分析して、これに形式律の拍節法則を求めたり、規則的なる休止符を求めたりする人は、畢竟《ひっきょう》この自由詩の哲学する有機律の原則を知らないために、辞書的解義による韻文の観念で自由詩を律そうとするの非に陥っているのである。
こうした思考の混乱と錯覚を防ぐため、左にこの関係を表解しよう。
[#「韻文」「散文」「自由詩」の関係を円を使って示す図(fig2843_01.png)入る]
表のAは、韻文・散文の言語を文字通りに、辞書的に正解した場合である。この場合にあっては、自由詩は韻文の側に属しないで、正しく散文の方の円に包括される。然るにBの場合は、同じ言語を本質上から、より広義の内容で解説した図解であって、この表では自由詩が韻文の側に属し、散文の方に属していない。かく同じ自由詩が、言語の解釈一つによって、或《あるい》は散文の一種に属し、或は韻文の一種に属する。そこで自由詩に関する一切の誤謬《ごびゅう》と偏見とは、実にこの二義の言語の、同一概念に於けるあやふや[#「あやふや」に傍点]な混乱的錯覚に起因している。即ち或る人々は、これによって自由詩に定形律の格調を求める
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