詩壇は、判然たる二派のものに対立している。一は和歌俳句による島国的鎖国の一派で、一は新体詩以来の世界進出を直系し、自由詩によって表現を求めている一派である。実に前章に説いた如く、日本の詩の有り得べき形式は、この三つの者――和歌と、俳句と、自由詩と――の外にない。すくなくとも今日の事態に於て、これ以外のいかなる詩形も、日本に於ては仮想され得ない。故《ゆえ》に吾人《ごじん》にしてもし、和歌俳句の短詩を選ばないとするならば、他の残された一つのもの、自由詩を取る外に道はないのだ。かくて現在する新詩壇は、あらゆるすべての詩人が――貴族派に属するものも、平民派に属するものも、抒情詩的《リリカル》の詩人も、叙事詩的《エピカル》の詩人も、形式主義の詩人も、自由主義の詩人も、高蹈派系の詩人も、象徴派系の詩人も――すべて一切が皆、悉《ことごと》く無差別に自由詩を作っている。自由詩以外の、いかなる新詩形も日本には有り得ないのだ。
 故に現詩壇の重要事は、何よりも先《ま》ず自由詩の本体を、判然明白に知ることである。この認識にして不足ならば、詩の批判さるべき根拠がなく、一も価値の正邪を論ずることができないだろう。然るに現詩壇の常識は、極《きわ》めてこの点があやふや[#「あやふや」に傍点]であり、朦朧《もうろう》漠然とした雲の中で、認識が全く失踪《しっそう》している。殆《ほとん》ど多くの詩人等は、何が真に自由詩であり、何が散文であるかの、判別さえも持っていない。そしてこの認識的|蒙昧《もうまい》から、詩の質と価値とは次第に低下し、しかもこれを破邪顕正《はじゃけんしょう》すべき正見がない。実に今日の詩壇に対して言うべきことは、詩人が自由詩の「創作」をもつことでなくして、自由詩の「評論」をもつことである。なぜならば前者の堕落は、後者の批判なくして救い得ないから。
 自由詩の何物たるかは、既に前の章(韻文と散文、その他)で概説した。しかし今一度、大切な点をはっきり[#「はっきり」に傍点]しておこう。大切なことは、自由詩が辞書の正解する韻文に属しないで、より広義の解釈による、本質上での韻文に属するということである。辞書の正解する、言語通りの意味の韻文とは、一定の法則されたミーターやスタンザを持ったところの拍節《リズム》の正規的な形式文学を指すのである。そしてこれに対する散文とは、かかる形式的な法則がな
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