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     第十三章 日本詩壇の現状


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 明治以後に於ける「新しき日本」の詩は、大別して二つの系統にわかれて来た。一は和歌俳句の伝統的詩形によるもので、一は新日本の革新から、欧風の新しき詩を創造しようとする一派であった。しかし明治の当初にあっては、和歌等の伝統詩形によっているものも、精神に於ては後者と同じく共に新日本の世界的進出を考えていた。即ち彼等は、その国粋の詩形に新時代の情操を盛ろうとしていた。然るにその後、文壇に於ける自然主義の思潮――は日本に於ては、それが反動的な国粋主義として帰結した。――と共に、次第に彼等は形式の中に巻き込まれ、遂に全く島国日本の伝統に還ってしまった。
 これに対して、一方欧風詩体の創造を企図した一派は、当時の所謂《いわゆる》新体詩である。彼等の元気|溌剌《はつらつ》たる過渡期の詩人は、これによって欧風の詩を移植し、新日本の若き抒情詩《リリック》を創った積りで得意になっていた。けれどもその実、彼等の詩体は何の新しいものでもなく、日本に昔から伝統している長歌・今様《いまよう》の復活であったのだ。即ち彼等もまた、一方の改新的な歌人と同じく、国粋の詩形に新しい内容を盛ろうとしたので、言わば新体詩の本質は、当時の所謂「新派和歌」に対照して、「新派今様」と言わるべきものであったのだ。――天が下に一の新しきものあることなし!(聖書)
 けれども新体詩は、幸いにして形式の中に巻き込まれず、却《かえ》ってその形式に退屈してきた。これ前章に述べたように、和歌俳句の音律的完美に対して、この種の長篇韻文が愚劣であり、当然一時の流行によって亡《ほろ》ぶべき非芸術的のものであったからだ。しかし人々は尚《なお》、全く新体詩を見捨てなかった。なぜなら新日本の青年たちは、和歌俳句によって満足し得ない、別の新しい形式を欲していたから。そこで改修と新工夫が、しばしば新体詩に対して試みられた。遂に七五調が破格を生み、単調のものが複雑になり、そして最後に、今日見る如き自由詩に到達した。しかもこの自由詩の創造が、日本に於ては既に原始のものに属し、国詩の起元する母体のものであったことは、前章に述べた通りである。実に日本に於ては、自由詩ほど古く遠いものはないのである。――再度言おう。天が下に一の新しきものあることなし!
 かくて現在の日本
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