めに要求された。そして尚《なお》かつ、それは日本詩の原始的発生に帰るところの、一の自覚されない本然主義の運動でもあったのだ。
かくの如く日本語は、韻文として成立することができないほど、音律的に平板単調の言語であるが、他方に於てこれを補うところの、別の或る長所を有している。即ち語意の含蓄する気分や余情の豊富であって、この点遙かに外国語に優《まさ》っている。かの俳句等のものが、十七字の小詩形に深遠な詩情を語り得るのは、実にこの日本語の特色のためであって、僅《わず》か一語の意味にさえも、含蓄の深いニュアンスを匂《にお》わせている。故に俳句等の日本詩は、到底外国語で模倣ができず、またこれを翻訳することも不可能である。そしてこの日本語の特色から、我が国の詩は早くより象徴主義に徹入していた。その象徴主義の発見は、西洋に於て極めて尚最近のニュースに属する。(象徴の精神が、それ自ら自由主義であることに注意せよ。)
以上吾人は、主として国語の関係からのみ、日本詩歌の特色を考えてきた。しかし国語は民族の反映である故に、吾人がかかる言語を持つことは、取りも直さず我々の国民性が、かかる特色を有することに外ならない。畢竟するに国語と民族性との関係は、表現に於ける形式と内容との関係である故に、その形式されたる国語を見れば、その内容している民族性が、いかなるものであるかが解る筈《はず》だ。この日本国民性の特色につき、吾人はさらに深く考えるところがなければならぬ。だがこの考察は後に廻し、順序として日本詩壇の現状につき、次章に論説を進めて行こう。
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* 短歌に於ける有機的な内部律(調べ)とは、言語の構成される母音と子音とから、或る不規則な押韻を踏む方式であり、日本の歌の音律美は、全くこの点にかかっている。特に新古今集等の歌は、この点で音韻美の極致を尽している。著者はこれについて興味ある研究を持っているけれども、此処に発表する余頁《よページ》のないのを遺憾とする。
尚、五七音中に於ける小分の句節(例えば五音の小分された三音二音)は、法則の外に置かれる自由のもので、この組合せを色々にすることから、特殊の魅力ある音律を作り得る。故岩野泡鳴はこの小分の音律を法則しようと試みたが、かくの如きは歌の特殊な「調べ」を殺し、自由のメロディーを奪うもので、最も無意味な考である。
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