却《かえ》ってその反復から、快美なリズミカルの緊張を感じさせる。けだし日本語の音律としては、これが許された限りに於ける、最も緊張した詩形であろう。
故に日本にあっては、短歌だけが不朽の生命を有している。これ以上長い詩形は、いくら試みても駄目である。試みに短歌の上に、も一つだけ五七音の反復を足してみようか。既にもう緊張がぬけ、単律のダルさを感ずる。そしてさらに今一つを加えてみようか。今度は全く今様や新体詩の退屈になってしまう。故に許され得る最後の詩形は、日本語として短歌の外に有り得ない。後世に生れた俳句に至っては、さらにまた短歌の半分しかない。そして短いものほど、日本語の詩としては成功している。
しかし吾人の悩みは、いかにもして日本語の音律から、より長篇の詩が作りたいと言うことにある。おそらくこの同じ悩みは、昔の詩人たちも感じていた。(さればこそ古来種々の新しい詩形が工夫されたのだ。)ではこの悩みを解決すべく、我々はどうしたら好いのだろうか? 先に言った短歌の内部的有機律を、そのまま長篇の詩に拡張したらどうだろうか。否。それは無効である。なぜなら詩の骨骼たる外形律が、既に単調を感じさせる場合に於て、内部的なデリケートな繊維律は、何等の能力をも有し得ないから。それでは五七や七五の代りに、他の六四、八五等の別な音律形式を代用したらどうだろうか。考えるまでもなく、これはどっちも同じことだ。今日西洋音楽に唱歌するため、しばしば六四調や八五調の韻律されたものを見るけれども、その単調なことは何《いず》れも同じく、却って七五音より不自然だけが劣っている。
そこで最後に考えられることは、一つの詩形の中に於て、五七を始め、六四、八六、三四等の、種々の変った音律を採用し、色々混用したらどうだろうということだ。この工夫は面白い。だがそれだったら、むしろ始めから韻律を否定するに如《し》かずである。なぜなら一つの文の中で、八六、三四、五七等の、種々雑多な音律を取り混ぜるのは、それ自ら散文の形式だからだ。韻文の韻文たる所以《ゆえん》のものは、一定の規則正しき法則《ルール》によって、反復や対比やの律動を持つからである。雑多の音律が入り混った不規則のものだったら、すくなくとも辞書の正解する「韻文《バース》」ではない。即ちそれは「散文《プローズ》」である。
故にこの最後の考は、詩の音律価値を高
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