るものなら、世の中に韻文ぐらい退屈なものは無かろう。畢竟するに平家や謡曲等の詩文は、琵琶《びわ》その他の音曲によって歌謡される、文字通りの「謡いもの」であって、独立した文学としては、韻文価値のないものである。
 独立した文学として、真に韻文価値を有するものは、日本に於て和歌俳句等の短篇詩があるのみである。これ等の詩には、西洋流の形式韻律がない――有っても見るに足りないほど素朴である――けれども、その格律の内部に於て、或る特殊な*有機的の自由律、即ち歌人の所謂《いわゆる》「調べ」があって、不思議に魅力のある文学的音楽を奏している。そしてこの限りなら、日本の詩の韻文価値が、必ずしも外国に劣りはしない。しかしながら困ったことには、それが短篇詩にのみ限定されて、長篇詩には拡大され得ないのである。この日本語の韻律的不自由について、少しく次に説明しよう。
 日本語には平仄もなくアクセントもない。故に日本語の音律的骨骼は、語の音数を組み合す外にないのであって、所謂五七調や七五調の定形律が、すべてこれに基づいている。然るにこの語数律は、韻文として最も単調のものであり、千篇一律なる同韻の反復にすぎないから、その少しく長篇にわたるものは、到底|倦怠《けんたい》して聴《き》くに堪えない。故に古来試みられた種々の長篇韻文は、楽器に合せる歌謡の類を別にして、悉《ことごと》く皆文学的に亡《ほろ》びてしまった。例えば万葉集に於て試みられた五七調の長歌――それは多分支那の定形律から暗示されて創形した――は、一時短歌と並んで流行し、丁度明治の新体詩の如く、大いにハイカラな新詩形として行われたが、その後いくばくもなく廃《すた》ってしまった。後にまた古今集の時代になって、一時七五調の今様《いまよう》が流行したが、これもまたその単調から、直ちに倦《あ》きて廃れてしまった。そして最後に、明治の新体詩が同様な運命を繰返した。
 かく日本に於ては、古来から種々の韻文が試みられ、一時的に流行しては、たちまち倦かれて廃ってしまう。ただ独《ひと》りこの間にあって、昔から一貫した生命を有するのは、三十一音字の短歌である。この短詩の形式は、五七律を二度繰返して、最後に七音の結曲《コダ》で終る。それは語数律の単調を避け得べき、最も短かい形式である。此処には同律の繰返しが二度しかないから、何等倦怠を感じさせないばかりでなく、
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