外国の宣教師達が、昔聖書を日本語に訳す時には、或はさういふ事があつたかも知れない、それとても日本人の力がその大部分を占めて居たであらうと思ふ。さすがに国自慢のイギリス人でもシエイクスピアやミルトンを日本語に訳さうとはしなかつた。それは出来ない相談であるからである。外国語で自分の考《かんがへ》をのべたとか、創作をしたとかいふのは随分西洋にもあるが、私は寡聞にして、まだ自国のものを他国語に訳したといふ例を、外国の文学上で耳にした事がない。蓋しさういふ事があるかも知れないが、恐らくそれは稀有の例であらう。然るに翻訳会社のある日本では、それが往々行はれて居る、学生のために日本文を英語に訳する例を教へるためのものならば、それは已むを得ない事でもあるが、左様でなくて日本文学を外国に伝へるといふ意味で、それが行はれて居るには少しく驚く、が、さらにそれが意外とも例外とも考へられず、当然結構な事と考へられて居るに至つては、さらに驚かされる次第である。どうも日本はどこまでも翻訳国で、さすがに翻訳会社の出来るのも無理はないと頷《うなづ》かれる。
翻訳国と言へば日本の事物はすべて翻訳である。政治も、教育も、事業も何もかもさうである。その内には良訳もあれば誤訳もある。文芸の翻訳の気分訳もあれば逐字訳もあらう。飛行機の墜落とか、電車電灯の停電なんていふものは恐らく誤訳から来たものであらう。然らずんば拙訳の致す処であらう。私は三越に行く度《たび》に、なるほど西洋のデパートメント・ストアを翻訳したら、恁《こ》うなるのだなと感心する。恐らくこれ等はうまく翻訳したものであらう。これに反して須田町《すだちやう》に立つて居る銅像は確かに誤訳である。而もあれは逐字訳の方の誤訳であらう。恐らくこれほどイギリスの原文を一字一句、そのまゝに訳して醜悪を曝《あらは》したものはあるまい。須田町と言へば、これも嘗《か》つて私の言つた処であるが、その場処そのものが誤訳である。両国でも、この筋違でも、旧来の広場をつぶして、新らしい広場の誤訳をもツて来たものである。これ等は顕著なものであるが、今日の吾が社会に無数にあるいやな事、間違つた事の多くは、この誤訳から来て居るのであるまいか。
日本の事が一切翻訳であるとすれば、この国が古今東西無比の文学翻訳国であるのもまた怪むに足りない。翻訳製造株式会社の出来るのも当然な事である。併し翻訳といふものゝ目的とする処は、一体何処であるのであらう。さういふやかましい事は、私には解らないが、兎《と》に角《かく》自国以外の者が、どういふ事を考へて居るか、外国ではどういふものゝ見方をして居るか、どういふ風にものを感ずるか等の事を、作物によつて知り、それによつて自分の考を豊富にし、自分の考へ方、もの事の見方、感じ方を整へるのである。結局それは自分のためにするものである事は言ふまでもない、果してさうであるとすれば、その翻訳の仕方も自から定まつて来る筈《はず》である。それはこゝに私がぐづぐづ説く必要もあるまい。然るに若《も》し其処《そこ》に誤訳といふものがあれば若《もし》くは拙訳といふものがあれば、それは全くその目的を達し得ないのみならず、それが有害なものになる。さういふものは、むしろ無い方が良い。何となれば丁度須田町の銅像が醜を曝《さら》すやうに電車、電灯が、人を困らすやうに、間違つた考へ方や間違つた見方感じ方を伝へては、世を毒する事になるからである。よしそれほどでなくても悪い翻訳は、その原作に対する人の考をあやまらすものである。私一個としてもさういふ経験がある。その一例をあげて言へば、私は子供の時バンヤンの翻訳を読まされたが、恐らくその翻訳が、まだ文学的思想の幼稚の時に出来たものであつたからであらう、甚だ面白くないものであつたゝめ、今日なほあの有名な作が嫌ひである。一方には世を害《そこな》ひ、一方には原作を害ふ、この場合シエイクスピアの言を逆に、災害は二重になる。甚だ恐るべきである。読者は咎《とが》めて言ふであらう、貴様は前に翻訳といふものは容易なものだと言つたではないかと、如何《いか》にも左様《さやう》言つたが、それは売品としての翻訳で、文芸としての翻訳ではない。もつとも私は翻訳不可能論者であるから、その点から言つても翻訳の事をやかましく言ふ資格はないのであるが、併し同時に翻訳は出来ないが、解説は出来るのである、即ちパラフレイズは可能であるから、それによれば原作の考へ方見方感じ方の紹介は出来る筈である。
なほも一つ言ひたい事がある、それは翻訳なるものは、あまり宛《あて》にならないといふ事である。能《あた》ふべくは翻訳などは見ない事にして貰ひたいのである。これも翻訳不可能論に関係があるが、贔屓目《ひいきめ》に見ても翻訳は版画である。原作の細い筆づかひ、
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