国の文学の流れ込んだ事実はないのであるから、或はその為めに人心は食傷しはしないかと、気づかはれるのも一応はもつともである。併《しか》し私に云はせればそれは杞憂である。買ふ人必らずしも読むのではないし、また読んだ処《ところ》で斯《か》うして出来た翻訳は容易に解りつこいないからである。解つては翻訳ではない。解らない処に翻訳の価値があるのである。実に不思議な事であるが、日本では翻訳と云ふと解らないものになつて居る。これは嘗《かつ》て私の説いた処であるが、西洋の諸国では翻訳といふと読み易い解り易いものになつて居る。それは成句や慣用語が説明的になるし、文体も感情的でなくなり、概して理智的説明的になるからである。然るに用語文体の組織が全然相違するためでもあるが、日本では翻訳が全く不可解になる、不可解は翻訳の主なる資格である。そんなわけであるから、それほど翻訳が沢山に出ても、それがために人の心が動かされるとか、在来の思想が乱れるといふやうな事は決してない、そんな事を心配するのは全く杞憂に過ぎない。
 従つて近時の翻訳は粗雑であるとか、乱暴であるとかいふのも筋の通らない論である、えて左様《さう》いふ事は老人の言であるが――現筆者も老人であるが――それは全く事理を弁《わきま》へぬ言である。一体私は翻訳不可能論者である、真実の意味に於て翻訳は出来ないものと心得て居る。それ故《ゆえ》新潮社の翻訳は定評があるとか、杜撰《づさん》なものであるとか、そんな評判はよく聞く処であるが、私は少しもそれに耳をかさない。何となればどうせ出来ない翻訳であるから、それが良くても、悪くても結局は五十歩百歩であるからである。もつとも物事の相違は五十歩百歩といふ処が大事なので、低気圧と高気圧との差は比較的僅少だし、体温は三十七度なら平温だけれども、それを三度越した四十度は大熱であるのだから、況んや五十歩百歩は大変な相違にちがひないが、それは場合に依る事で、何事も一律には行かない、零に対しては一だつて無限大であるから、不可能に対しては如何なる誤謬《ごびう》も誤訳も顧るに足らないのである。
 私の考へる処に依ると翻訳には二種類ある。第一は原文に拘泥せず、ドシ/\と自分勝手に訳してしまふのである。原文で左とあるのを右と訳しても良い、然《しか》りと書いてあるのを否《いな》と訳してもかまはない、何でもかまはず、勝手に思ふ通りにやつてしまふのである。少々は文の筋が通らなくても、話の関係が変でもそんな事には頓着しないやり方である。それは則ち気分に依つて訳すので、これを称して気分訳とか云ふさうである。その例は私があげるまでもあるまい、随分沢山にあつてすでに読者の十分に承知して居られる処であると思ふ。今一つの方式はそれとは反対の、逐字訳である、一語一句も忽かにせず、原文の通りに訳するのである、さうして出来上つたものは、通例何が書いてあるか一向に解らない、解らない筈である、訳者その人にも解つては居ないのであるから、併し翻訳としてまことに忠実なもので、これ以上は望み難いのである。例をあげると面白いのであるが、前の方式のにしてもこの方式のにしても、うつかり書いて叱られるといけないから、かけかまひのない処を云つて見るが、或る処でグロオワアムと言ふ字を蠅《はい》に似た虫で夜後尾の方が光るものだと、先生が言つたら、生徒の一人が、先生それは蛍ではありませんかと言つたといふ話があるが、第二の式の翻訳はこの呼吸で行くのである。ヰイク・デイスなら週間の日、インゼ・ロング・ランなら長い走りの内にと言つた具合に行くのである。この両式は尤も大事なやり方で、今日の多量生産がこの式で行くのかどうか私は知らないが、これで行くのが尤も容易で都合の良いやり方である事を私は断言して置く。
 これは本題の翻訳製造会社とは関係のない事であるが、序《つい》で故一言して置かうと思ふ事がある、それは日本の文学を西洋に訳して嬉れしがつて居る人の事である。私は日本の文学の卓越して居る事に異議を唱へるものではない。外国人がそれに感心して、それを自国語に翻訳するのに異議を抱くものでもない。併し日本人自からが自分の文学を他国に訳して得々たるのは甚だ可笑しいと思ふ。可笑しい計りではない、或る意味に於ては吾が恥辱でもあると思ふ。その事自体が国辱ではないかとさへ思ふ、少くとも事理をわきまへた事ではないと思ふ。西洋人がさういふ翻訳をするのを助けて、それを完成さすなら結構な事であるが、自から進んでそれをやり、却つて西洋人の助をかりてそれを公《おほやけ》にするなんていふのは、少し馬鹿気た事と思ふ。かりに一人のイギリス人があつて、それが日本語に精通して居たといふので、シエイクスピアの翻訳を企てたらどんなものであらう。一寸《ちよつと》考へられない馬鹿気た話である。
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