翻訳製造株式会社
戸川秋骨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)誰《た》れ

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)昔|紡績女《スピンスタア》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)もと/\
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 器械を一とまはしガタリと動かすと幾個かの字が出て来る、また一とまはしガタリと動かすと、また幾個かの字が出て来る、幾度かそれを繰りかへして居ると、沢山の字が集つて来るから、それを並べると、立派な学問が出来上る。これが誰《た》れでも知つて居るガリヴア巡島記で、スヰフトが書いて居るラガトオの大学の記事である。が、これにも増して容易にまた簡単に出来るのものは今日の吾が翻訳である。西洋のある名ある書物を始めて翻訳するのは、可なり骨の折れる仕事であるが、ナニそれでも少し根気よく器械でも動かす積りでやれば、ぢきに出来る。その翻訳が一つ出来上がれば、あとはわけなしで、ラガトオ市の大学で器械を動かすよりも手軽に出来る。凡《およ》そどんな翻訳にだつて文句をつけて、つけられないのはないのであるからその一つ、出来上つた翻訳に少し間違でも見つけたら、それを大袈裟に吹聴して、それから大体の他の部分にも筆を入れて、前のより少し下手にすれば、それで沢山なのである。下手と云つて悪ければ、前のよりは解らなくするのである。かういふ風にして拵《こしら》へて行けば、翻訳なんてものはいくらでも出来る。かういふ風にして翻訳を作り出す所を私は有限責任翻訳製造株式会社といふ。さういふ翻訳では原文に忠実でないとか、原文の意に反するなんて云ふものもあるが、それは甚しい愚論で、そんな事は決して顧慮すべき事でない、そんな事を顧慮するのは無益といふよりも却《かへ》つて有害である。何となればそんな事を云つて居ては、却つて文化の普及を阻害するからである。
 丁度昔|紡績女《スピンスタア》の手仕事であつた紡績が、大工場の一大産業となつて、所謂《いはゆる》大量生産なるものとなり、為めに昔の工女の手仕事が奪はれたやうに、従来かういふ翻訳も貧乏文士或は教師の手内職であつたものが、今や大資本に依つて多量に生産されるやうになつた。一方に貧乏文士や教師の手内職は奪つたやうであるが、他方に於てはそれは資本家自身を富ますのみならず、また多大な富を翻訳者自身に与へるやうになつた。蓋《けだ》し斯様《かやう》な翻訳の大量生産はさういふ風に資本家と文人とに幸福を与へるのみならず、また世界の大思想大文芸を、極めて低廉《ていれん》な値を以て万象に頒与《はんよ》するのであるから、文化のためにも至大な貢献であるに違ひない。天の恵《めぐみ》は二重である、とはシエイクスピアの句にあるが、この事業たるや、かくして三重の恵となつて居《を》るのであるから、豈《あ》に大したものではなからうか。果して天下をあげてかくの如《ごと》き挙に賛意を表してゐる、上《かみ》は廊堂の大官より下は陋巷《ろうかう》の文士に至るまで、みな高見をのべてその徳をたゝへて居る。いやまだその恵に与つて居るものがも一ツある、新聞紙がそれである、売薬品の広告以外、翻訳ものの広告が、どれほど新聞社を益した事であらう。これみな国家の慶事にあらずして何であらう。
 エリザベス朝にイギリスがイタリヤの文芸を取り入れた時も、それが十八世紀の初めにフランス文学から影響された時も、レツシンクであつたか、ラインの彼岸から来るものはみな謳歌されると云つて、フランス大学の模倣を慨嘆したドイツに於ても、吾が日本の今日ほど外国文学の悦ばれた時代はないであらう。咋今一円本と称して、世間から歓迎されて居るものは、大半翻訳文学である。世界文学とか、世界大思想とか、近代戯曲とか、近代……とかすべて翻訳でないのは殆んどなく、翻訳と銘を打つてないものでも、内容は翻訳であつて、正直に翻訳と看板を出したものよりも、さらに甚しい翻訳であつたりする。私はどうしてこんなに簡単に、こんなに容易に、社会を益し書店を益し、文人を益する、都合の良い事業を、人がこれまで思ひつかなつたかを怪むものである。人は或は文芸の商品化を難ずるかも知れないが、文芸の事は云はぬとして、翻訳に至つては、何もそんなにやかましく云ふ筋のものではない、もと/\商品であるのではないが、初めに云つたやうに器械で拵へるよりも容易に製造しうるのではないか、これが商品でなくて何であらう私は斯ういふ事業に依つて人々が利益を得、同時に世間に利益を与へる事を以《もつ》て尤《もつと》も近代的な、また最も賢明なる事業と考へて居る。只気の弱いものは、こんなに洪水のやうに外国文学が流れ込んで来て、果たして良いものかと心配するものもある。前に云つたやうに古往今来世界の何処《どこ》に於ても、これほど外
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