して、翌年正月の鳥羽《とば》、伏見《ふしみ》の戰ひ、其他すべては「文藝倶樂部《ぶんげいくらぶ》」の臨時増刊、第九年第二號「諸國年中行事」といふ中《うち》に、「三十五|年前《ねんぜん》」と題して私は委しく話した事がある。又た先頃の毎日電報《まゐにちでんぽう》に「夜長のすさび」として月曜毎に掲載した事があるから、今更改めて言ふにも及ぶまい。
兎に角、そんな風であるから、私《わたくし》の青年時代は中々文筆に親しむどころの騷ぎではない。すなはち十七年の秋《とき》から明治元年の二十一歳まで、東奔西走、居處なしといふ有樣だつた。ソレから其年靜岡に行くまでには馬鹿な危險の目にも自《おのづ》から出遇ツたし、今考へて見るとお話しをするにも困る程の始末だが、たゞ其頃は些《すこ》しも山氣《やまぎ》なし、眞面目に其の事《つか》ふる所に孤忠を盡すつもりであつた。
斯くて江戸は東京となり、我々は靜岡藩士となつて、駿州《すんしう》の田中《たなか》に移つた。其の翌年、私《わし》は沼津《ぬまづ》の兵學校の生徒となつて調練などを頻りに遣らされた。けれども間もなく出て、靜岡の醫學校に入《はい》つたが、其處《そこ》から藩
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