頻《しき》りに市中を巡邏《じゆんら》する。尚ほ手先を使つて、彼等盜賊の迹《あと》を附けさせると、それが今の芝《しば》の薩摩《さつま》ツ原《ぱら》の薩州屋敷に入《はい》るといふのでこの賊黨はとう/\薩藩《さつぱん》中《ちう》の溢《あふ》れ者《もの》だといふことが分つた。
ところで、一方の京都に於ては、慶喜公は既に大政《たいせい》を返上された。けれども以後の政治には、御自分等《ごじぶんら》も與《あづ》かつて、天下の公議で事を裁決しやうといふ御腹《おんはら》であつたのに、其年の十二月九日の夜《よ》。かの有名な小御所の會議で王政一新の議を決められた。處が慶喜公を初め、會津も桑名《くはな》も其會議に省かれた。のみならず、其の前後、徳川征討の密勅が薩長二藩に下つた。といふ噂が立つた。それが其頃大阪に居た慶喜公の耳に聞えた。そこで公は心|大《おほい》に平《たひらか》ならず、更に薩長彈劾の奏を上《たてま》つる、さアそんな事を聞くと江戸でもじツとしては居られない。そんな此んなで、やつつけるといふことで、とう/\薩州邸の燒打となつたのである。併し其時の騷ぎは大きくは無かつた。
右の燒打を初《はじめ》と
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