いたらう》なる先生に就いて論語や孟子の輪講などをして居たが、もうソレどころで無い、筆を投じて戎軒《じうけん》を事とする時節だから、只だ明けても暮れても劍術を使ふ、柔術を取る、鐵砲を打つ抔といふ暴《あら》ツぽい方の眞似ばかりして居た。
 する中《うち》に、其年の「慶應三年」の十二月二十五日に所謂薩州邸の燒打《やきうち》といふ事件が起つた。それは何故《なぜ》かと言ふと、其の夏頃から市中に盜賊が流行《はや》つて仕方がない、それがどうも長い刀を差して、五人、七人、十人十五人と徒黨を組んで押し込んで來る。大きな金持のところへ入《はい》つては、百兩二百兩といふ金をふんだくる。中には鐵砲を擔《かつ》いで入《はい》る者もあるといふ風で、深川《ふかがは》の木場《きば》や淺草《あさくさ》の藏前《くらまへ》で、非常に恐れた。
 で、さういふ者を檢擧する爲に、新徴組《しんちようぐみ》といふものが出來た。その中《うち》には、彼《か》の有名な土方歳三《ひぢかたとしざう》や、近藤勇《こんどういさむ》といふやうな人も入《はい》つて居た。そして其の支配が出羽《では》の庄内の酒井左衞門尉《さかゐさえもんのじやう》。それが
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