國の經濟が非常に助かるといふ説も出で、これには贊成もあり、反對もあつたが、蕎麥は知らぬが、玉蜀黍の方は今は亞米利加《あめりか》の常食だ。併し其の時分、玉蜀黍説には僕も驚かされた。先づ旅中、およそ六七十日のうち、三日にあげず寄合つて異な言《こと》を言ひ出して、互ひに意見を述べ合つて居たけれども、幕府に、肝腎の開墾資金がなかつたので、とう/\此論も沙汰止みの行はれず仕舞となつた。何しろ、それから右三年の後《のち》、慶慮四年の江戸城開け渡しといふ時に、御藏《おくら》の金《かね》がたつた三十六萬兩、即ち今の三百六十萬圓程しかなかつたといふのだから、實際幕府も情けない身上《しんじやう》であつたに違ひない。で金のかゝる割には、苦情の多い、荒向《あれむき》の利益が少ない開墾の、一時|止《や》めになつたのも無理は無い。
その翌年、すなはち慶應の三年、僕の廿|歳《さい》の年には所謂《いはゆる》時事益々切迫で、――それまでは尊王攘夷《そんわうじようゐ》であつたのが、何時《いつ》の間《ま》にか尊王討幕になつて了《しま》つた。所謂危急存亡の秋《とき》だ。で私《わし》も、それ迄は奧儒者の小林榮太郎《こばやしえ
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