命で薩摩に遊んで、諸藩の書生と付き合つたが、それが私《わし》の放浪生活の初めでもあつたらう。それから歸つて、人見寧《ひとみやすし》、梅澤敏《うめさわとし》などゝいふ人の取り立てた靜岡の淺間下《あさました》の集學所といふに入《はい》つた。其の集學所に居る人間は函館《はこだて》の五稜廓《ごりやうかく》の討ち洩らされといふ面々だ。總勢すぐツて百四五十人ばかり。毎日|軍《いくさ》ごツこ[#「ごツこ」に傍点]のやうな眞似ばかりして居たが、其《その》うち世は漸次《しだい》に文化に向つて、さういふ物騷《ぶつさう》な學校の立ち行かう筈もないので、其中《そのうち》に潰れて了つた。それから私《わし》は田舍の學校の教師になつた。
 初めて横濱毎日新聞《よこはまゝいにちしんぶん》に入《はい》つたのは、明治七年である。それが今日《こんにち》のそも/\で、それから十一年に東京日々新聞《とうきやうにち/\しんぶん》に來た。そして職業として文筆に親しんだ。そんな風だから、美學や哲學の規則立つての修養もなく、唯《ただ》昔から馬琴《ばきん》其他の、作物は多く讀んだが、詰りが明窓淨几の人で無くつて兵馬倥偬《へいばこうそう》
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