な氣もした。みのるが自分の腕に纒繞《まつは》つてゐる爲に、大膽に世間を踏み躙《にじ》れないといふ事が自分に禍ひをしてゐるのだと思ふと、義男はこの女を追ひ出すやうにしても別にならなければならないと思ひ詰める事があつた。
「何か仕事を見付けて僕を助けてくれる譯にはいかないかね。」
義男は毎日の樣にこれをくり返した。
遂に男の手から捨てられる時が來たとみのるは意識してゐた。
十何年の間、みのるは唯ある一とつを求める爲めに殆んど憧れ盡した。何か知らず自分の眼の前から遠い空との間に一とつの光るものがあつて、その光りがいつもみのるの心を手操り寄せやうとしては希望の色を棚引かして見せた。けれどもその光りは、なか/\みのるの上に火の輝きとなつて落ちてこなかつた。みのるは義男の心の影を通して、自分にばかり意地の惡るい人生をしみじみと眺めた。
「何も彼も思ひ切つてしまひたまへ。君には運がないんだから。そうして君はあんまり意氣地がなさ過ぎる。君は平凡な生活に甘んじて行かなけりやならない樣に生れ付いてるんだ。」
斯ういふ義男の言葉をみのるは思ひ出した。けれども、みのるは矢つ張りその一|縷《る》の光りをいつまでも追つてゐたかつた。遂に自分の手に落ちないものと定《き》まつてゐても、生涯その一縷の光りを追ひ詰めてゐたかつた。然うしてその追ひ詰めつゝゆく間に矢張り自分の生の意味を含ませて見たかつた。
二人はある晩酉の市から歸つて來てから、別れるといふことを眞面目に話し合つた。
「第一君にも氣の毒だ。僕の働きなんてものは、普通《なみ》の男の以下なんだから。僕はたしかに君一人養ふ力もないんだから一時別になつてくれたまへ。その代り君を贅澤《ぜいたく》に過ごさせる事が出來る樣になつたら又一所になつてもいゝ。」
これが別れると定《き》まつた時の義男の言葉であつた。
「義男と離れたなら自分は何うしやう。何うして行かう。」
みのるは直ぐに斯う思つた。さうして自分の傍から急に道連れの影を失ふのが、心細くて堪らなかつた。今まで長く凭れてゐた自分の肌の温みを持つた柱から、辷《すべ》り落されるやうな頼りなさが、みのるの心を容易に定まらせなかつた。
「メエイとも別れるんだわね。」
みのるは庭で遊んでゐた小犬を見ながら斯う云つた。この小犬は二人の長い月日を叙景的に繋ぎ合せる深い因縁をもつてゐた。二人をよく慰めたものはこの小犬であつた。みのるは思はず涙がこぼれた。
「あなたに別れるよりもメエイに別れる方が悲しい。妙だわね。」
みのるは戯談《じようだん》らしい口吻《くちぶり》を見せてから、いつまでも泣いてゐた。
十三
みのるは一旦母親の手許へ歸る事になつた。義男はあるだけの物を賣り拂つて一時下宿屋生活をする事に定めてしまつた。
こゝまで引つ張つて來てから、ふとこの二人を揶揄《からか》ふやうな運命の手が思ひがけない幸福をすとん[#「すとん」に傍点]と二人の頭上に落してきた。それは、この夏の始めに義男が無理に書かしたみのるの原稿が、選の上で當つたのであつた。
それは、十一月の半ばであつた。外は晴れてゐた。みのるが朝の臺所の用事を爲てゐる時に、この幸福の知らせをもたらした人が來た。
その人は二階でみのるに話をした。その人が歸つてしまつてから二人は奧の座敷で少時《しばらく》顏を見合せながら坐つてゐた。
「本當にあたつたのかしら。」
義男は力のない調子で斯う云つた。
みのるの手に百圓の紙幣《さつ》が十枚載せられたのはそれから五日と經たないうちであつた。二人の上に癌腫の樣に祟《たゝ》つてゐた經濟の苦しみが初めてこれで救はれた。
「誰の爲《し》た事でもない僕のお蔭だよ。僕があの時どんなに怒つたか覺えてゐるだらう。君がとう/\いふ事を聞かなけりやこんな幸福は來やしないんだ。」
義男自身がみのるに幸福を與へたかのやうに義男は云ひ聞かせた。
「誰のお蔭でもない。」
みのるも全く然うだと思つた。みのるはある時義男が生活を愛する事を知らないと云つて怒つた時、みのる自身は自分の藝術の愛護の爲めにこれを泣き悲んだりした。そんな事に自分の筆《ペン》を荒《すさ》ませるくらゐなら、もつと他の筆《ペン》の仕事で金錢といふ事を考へて見る、とさへ思つた。
けれども義男に鞭打たれながらあゝして書き上げた仕事が、こんな好い結果を作つた事を思ふと、みのるは義男に感謝せずにはゐられなかつた。
「全くあなたのお蔭だわ。」
みのるは然う云つた。この結果が自分に一とつの新規の途を開いてくれる發端になるかも知れないと思ふと、みのるは生れ變つた樣な喜びを感じた。
「これで別れなくつても濟むんだわね。」
「それどころぢやない。これから君も僕も一生懸命に働くんだ。」
選をした内の一人に向島の師匠もゐた。その人の點の少なかつた爲に、みのるの仕事は危ふく崩れさうな形になつてゐた。義男は口を極めて向島の師匠を呪つたりした。さうして却つてこの人に捨てられた事を義男はみのるの爲めに祝福した。他に二人の選者がゐた。その人たちはみのるの作を高點にしておいた。義男はこの人たちを尋ねることをみのるに勸めた。一人は現代の小説のある大家であつた。この人は病氣で自宅にはゐなかつた。一人は早稻田大學の講師をしてゐる人で、現代の文壇に權威をもつた評論家であつた。みのるはその人を訪ねた。義男はみのるが出て行く時に、みのるが甞て作して大事に仕舞つておいた短篇をその人の手許へ持つて行く樣に云ひ付けた。その人の手から發行されてる今の文壇の勢力を持つた雜誌に、掲載して貰ふ樣に頼んで來た方がいゝと云ふのであつた。
みのるは義男の云ひ付けを守つてその短篇を持つて出て行つた。今までのみのるなら、こんな塲合には小さくとも自分の權識といふ事を感じて、初對面の人の許へ突然に自作を突き付けるといふやうな事は爲ないに違ひなかつた。けれどもみのるの心はふと痲痺してゐた。
みのるが訪ねた時、丁度其人は家にゐた。然《さう》うしてみのるに面會してくれた。「あれは確に藝術品になつてゐます。いゝ作です。」
その人は痩せた顏を俯向かしながら腕組みをして然う云つた。みのるの出した短篇の原稿もこの人は「拜見しておく。」と云つて受取つた。
その人は女の書くものは枝葉が多くていけないと云つた。根を掘る事を知らないと云つた。それが女の作の缺點だと云つた。みのるは然うした言葉を繰り返しながら歸つて來た。さうして逢つてる間にその人の口から出た多くの學術的な言葉を一とつ/\何時までも噛んでゐた。
十四
「あの仕事にはちつとも權威がない。」
みのるは直きに斯う云ふことを感じ初めた。片手に握つてしまへば切《き》れ端《はじ》も現はれない樣な百圓札の十枚ばかりは直ぐに消えてしまつた。けれどもそんな小さな金ばかりの問題ではない筈であつた。
義男に強ひられて出來た仕事の結果は、思ひがけない幸福をこの家庭に注《つ》ぎ入れたけれども、そのみのるの仕事には少しも權威はなかつた。社會的の權威がなかつた。仕事の上の權威から云つたらまだ一面から誹笑を受けた演劇の方に、熱い血が通つた樣な印象があるとみのるは思つた。
みのるの心は又だん/\に後退《あとずさ》りして行つた。義男がさも幸運の手に二人が胴上げでもされてる樣な喜びを見せつけてゐる事にも不足があつた。二人の頭上に突然に落ちたものは幸運ではなくつて、唯二人の縁をもう一度繋がせる爲めの運命の神のいたづらばかりであつた。二人の生活はもう直ぐに今までの通りをくり返さなければならないに定まつてゐた。
みのるははつきりと「何うかしなければならない。」と云ふ事を考へた。もう一度出直さなければならないと考へた。空間を衝く自分の力をもつと強くしなければならないと考へた。みのるの權威のない仕事は何所にも響きを打たなかつたけれども、その一端が風の吹きまわしで世間に形を表しかけたと云ふ事が、みのるの心を初めて激しく世間的に搖ぶつた功果[#「功果」に「ママ」の注記]のあつたのはほんとうであつた。
その後みのるは神經的に勉強を初めた。今まで兎もすると眠りかけさうになつたその目がはつきりと開いてきた。それと同時に義男といふものは自分の心からまるで遠くなつていつた。義男を相手にしない時が多くなつた。義男が何を云つても自分は自分で彼方《あつち》を向いてる時が多くなつた。みのるを支配するものは義男ではなくなつた。みのるを支配するものは初めてみのる自身の力によつてきた。よく義男の憎んだみのるの高慢は、この頃になつて義男からは見えないところに隱されてしまつた。さうしてその隱された場所でみのるの高慢は一層強く働いてゐた。
「僕のお蔭と云つてもいゝんだ。僕が無理にも勸めなければ。」
かういふ義男の言葉を、みのるはこの頃になつて意地の惡るい微笑で受けるやうになつた。義男の鞭打つた女の仕事は義男の望む金といふものになつて報ゐられた。そこから受ける男の恩義はない筈だつた。又新しく自分は自分で途を開かねばならないといふみのるの新しい努力に就いては、男はもう何も與へるものを持つてゐなかつた。
少しづゝ義男の心に女の態度が染み込んでいつた。男を心から切り放して自分だけせつせとある段階を上つて行かうとする女の後姿を、義男は時々眺めた。あの弱い女がかうしてだん/\強くなつてゆく――その捩ぢ切つた樣に強くなつた一とつの動機は矢つ張り發表された例の仕事の結果だとしきや思はれなかつた。然うして自覺の強みを與へたものは矢つ張り自分だと思つた。
けれども義男は何も云はなかつた。みのるの爲た仕事は何うしてもみのるの仕事であつた。みのるの藝術は何うしてもみのるの藝術であつた。みのるは自分の力を自分で見付けて動きだしたのだ。義男はそれに口を挿むことは出來なかつた。義男は然う思つた時、この女から一と足一と足に取り殘されてゆくやうな不安な感じを味はつた。
ある時この二人の許へ訪ねて來た男があつた。これは義男と同郷の男で帝國大學の文科生であつた。この男の口からみのるは何日《いつか》の自分の作を選した眞實《ほんたう》のもう一人を知つた。それは簑村といふ新らしい作家であつた。新聞に發表されてゐた選者の一人は病氣であつた爲、その人の門下のやうになつてゐる簑村文學士が代選したのだといふ事がこの男を通じて分つた。この大學生は簑村文學士に私淑してゐる男であつた。
みのるはそれから間もなくこの大學生に連れられて簑村文學士をたづねた。その人の家は神樂坂の上にあつた。
其の家へ入つた時、みのるは上り口の薄暗い座敷の中で箪笥の前に向ふむきに立つてゐる男を見た。初めて來た客を奧へ通すまで其所に隱れて待つてゐる樣な容態があつた。その障子が開いてゐたのでみのるの方からすつかり見えた。
昔はどんなに美しかつたかと思はれるいゝ年輩の女に奧へ通されて待つてゐると、今向ふむきに立つてゐた人が入つて來た。それが簑村文學士だつた。言葉の調子も、身體も重さうな人であつた。
この文學士は作を選する時の苦心を話した。その原稿が文學士の手許にあつた時、夏の暴風雨と大水に出逢つてすつかり濡らして了ふところだつたのを、文學士の夫人が氣にかけて持ち出したといふ事だつた。その時崖くづれで家が破壞された爲この家へ移つたのださうであつた。
「あれを讀んだ初めはそんなに好いとも思ひませんでしたが中頃から面白いと思ひだした。けれどもね、百點をつけるといふ譯にはいかないと思つてゐると、家へ有野《ありの》といふ男がくる。それに話をすると其れぢや折角の此方《こつち》の主意が通らないといけないから百二十點もつけておけといふんでせう。有野は自分に責任がないからそんな無茶な事をいふけれども私にはまさか然うもゆかない。それで思ひ切つてあなたの點と他の人の點を二三十も違はしておいた。他の選者の點の盛りかたを見るとあなたは危ない方でしたね。」
文學士は、この女の機運は全く自分の手にあつたのだといふ樣な今更な顏をしてみのるを眺めた
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