木乃伊の口紅
田村俊子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)檜葉《ひば》の

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)一本|圖拔《づぬ》けて

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]《い》り豆

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ひよろ/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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       一

 淋しい風が吹いて來て、一本|圖拔《づぬ》けて背の高い冠のやうな檜葉《ひば》の突先《とつさき》がひよろ/\と風に搖られた。一月初めの夕暮れの空は薄黄色を含んだ濁つた色に曇つて、ペンで描いたやうな裸の梢の間から青磁色をした五重の塔の屋根が現はれてゐた。
 みのるは今朝早く何所《どこ》と云ふ當てもなく仕事を探しに出た良人の行先を思ひながら、ふところ手をした儘、二階の窓に立つて空を眺めてゐた。横手の壁に汚點《しみ》のやうな長方形の薄い夕日がぼうと射してゐたが、何時の間にかそれも失くなつて、外は薄暗の力が端から端へと物を消していつた。みのるは夕飯に豆腐を買ふ事を忘れまいと思ひながら下へおりて行くのが物憂くつて、豆腐屋の呼笛の音を聞きながら、二三人家の前を通つて行つた事に氣が付いてゐたけれども下りて行かなかつた。そうして夕暮の空を眺めてゐた。
 晴れた日ならば上野の森には今頃は紫いろの靄が棚引くのであつた。一日森の梢に親しんでゐたその日の空が別れる際にいたづらをして、紫いろの息を其所等一面に吹つかけるのであらうと、みのるは然う思つて眺めてゐた。今日の夕方は木も屋根も乾いた色に一とつ/\凝結して、そうして靜に絡み付いてくる薄暗の影にかくれて行つた。みのるはそれを淋しい景色に思ひしみながら、目を下に向けると、丁度裏の琴の師匠の家の格子戸から外へ出て來た娘が、みのるの顏を見上げながら微笑をして頭を下げた。みのるはこの娘の顏を見る度に、去年の夏、夕立のした日の暮れ方に自分が良人の肩に手をかけて二人して森の方を眺めてゐたところを、この娘に見られた時の羞恥を思ひ出した。今もその追憶が娘の微笑の影と一所に自分の胸に閃いたので、みのるは何所となく小娘らしい所作で辭儀を返した。さうして直ぐばた/″\と雨戸を繰つて下へおりて來た。
 豆腐屋の呼笛が何所か往來の方で聞こえてはゐたけれども、もう此邊までは來なくなつた。みのるは下の座敷の雨戸もすつかりと閉めて、茶の間の電氣をひねつてから門のところへ出て見た。
 眼の前の共同墓地に新らしい墓標が二三本|殖《ふ》えてゐた。墓地を片側にして角の銀杏の木まで一と筋の銀紙をはりふさげたやうな白々とした小路には人の影もなかつた。肋骨の見えた痩せた飼犬が夕暮れのおぼろな影に石膏のやうな色を見せて、小枝を噛《くは》へながら驅け廻つて遊んでゐた。さうして良人の歸つて來る方をぢつと見詰めてゐるみのるの足の下に寄つてくると、犬はみのると同じやうな向きに坐つて、地面の上に微に尻尾の先きを振りながら遠い銀杏の木の方を見守つた。
「メエイ。」
 みのるは袖の下になつてゐる犬の頭を見下しながら低い聲で呼んだ。呼ばれた犬は凝《ぢ》つとした儘でその顏だけを仰向かせてみのるを見詰めたが、直ぐその顏を斜にして、生きたるものゝ物音は一切立消えてゆく靜まり返つた周圍から何か神秘な物音に觸れやうとする樣にその小さい耳を動かした。無數の死を築く墓地の方からは、人間の毛髮の一本々々を根元から吹きほぢつて行くやうな冷めたい風が吹いて來た。自分の前に横たはつてゐる小路の右を眺め左を見返つてゐたみのるは、二三軒先きの下宿屋の軒燈が蒼白い世界にたつた一とつ光りを縮《ちゞ》めてゐるやうな淋しい灯影ばかりを心に殘して内へ入つた。

 義男が歸つて來た時はばら/\した小雨が降り初めてゐた。普通よりも小さい義男の頭と、釣合ひのとれない西洋で仕立てた肩幅の大きな洋服の肩をみのるの方に向けて、義男は濡れた靴を脱いだ。垂れた毛を撫で上げながら明るい茶の間へはいつて來た義男は、その儘奧の座敷まで通つてしまつて、其所で抱へてゐた風呂敷包みと一緒に自分の身體も抛り出すやうに横になつた。
「駄目。駄目。何所へ行つても原稿も賣れなかつた。」
「いゝわ。仕方がないわ。」
 みのるは義男が風呂敷包みを持つて歸つて來たので、きつと駄目だつたのだと思つてゐた。何時までも歩きまわつてゐた事が、みのるには雨に迷つた小雀のやうに可哀想に思はれた。
「お腹《なか》は?」
「何も食べないんだ。何軒本屋を歩いたらう。」
 義男は腹這になつて疊に顏を押付けてゐるので、その聲が物に包まれてゐる樣にみのるに聞こえた。
 義男が居ない間に、みのるは一人して箸を取る氣になれないので、今日も外に出てゐた義男と同じやうに何も食べずにゐた。それで義男の言葉を聞くと急にみのるは食事といふ事にいつぱいの樂しみをつながれて、臺所へ出て行つて働き初めた。膳の支度が出來るまで義男は今の樣子の儘で動かなかつた。

       二

「僕は到底駄目な人間だね。僕にやとても君を養つてゆく力はないよ。」
 默つて食事を濟ましてしまつた義男は、箸をおくと然う云つてまた横になつた。それに返事をしなかつたみのるは、膳を片付けてしまふと箪笥の前に行つて抽斗《ひきだし》から考へ/\いろ/\なものを引出して其所に重ねた。
「おい。行つてくるの?」
「えゝ。だつて何うする事も出來ないもの。」
 みのるは包みを拵へてから、平常着《ふだんぎ》の上へコートを着て義男の枕許で膝の紐を結んだ。
「ぢや行つてきます。一人だつていゝでせう。淋しかないでせう。」
 みのるは膝を突いて義男の額を撫でた。義男の狹い額は冷めたかつた。
「僕も一緒に行く。」
「ぢや着物を着代へなくちや。洋服ぢやおかしいから。」
 義男が洋服を脱いでゐる間、みのるは鏡の前へ行つて、頸卷《えりまき》をしてくると大きい包を抱へて立つてゐた。そうして自分一人なら車で行つて來てしまふのにこの人と一緒だと雨の中を歩かねばならないと思つたが、口に出しては何も云はなかつた。
 みのるは重い包みを片手に抱へたまゝ戸締りをしたり、棚から傘を下したりした。包が邪魔になるとそれを座敷の眞中に置き放しにして來て、在所《ありか》を忘れて又|彼方此方《あちらこちら》を探したりした。
 二人は一本づゝ傘を手にして庭の木戸から表に廻つた。
「留守番をしてゐるんだよ。お土産を買つて來て上げるからね。」
 雨のびしよ/\と雫を切らしてゐる暗い庭の隅に、犬の白い姿を見付けるとみのるは聲をかけた。犬は二人して外に出る時はいつも家の中に閉ぢ籠められておくことに馴らされてゐた。怜悧《りこう》な小犬は二人の出て行く物音に樣子を覺《さと》つて、逐ひ籠められないうちに自分から椽の下にもぐり込まふとしてゐるのであつた。
 門をしめて外に出てからも、みのるはひつそりとしてゐる犬の樣子がいつまでも氣に掛つて忘られられなかつた[#「忘られられなかつた」はママ]。少し歩いてくると義男は氣が付いたやうにみのるの手から包みを取らうとした。
「持つてつてやるよ。」
 雨の停車塲は遲れた電車を待合せる人が多かつた。つい今しがた降り出した雨だけれども、土も木も人の着物も一樣に濕々《じめ/″\》した濡れた匂ひを含んで、冷めたい空氣の底にひそかに響きを打つてゐた。みのるは包みを外套の下に抱へてゐる義男を遠くに放して、その傍に寄らずにゐた。電車に乘つてからも二人は落魄した境涯にあるやうな自分々々を絶えず心の中で眺め合ひながら、多くの他人の眼の集つた灯の明るい電車の中で、この夫婦といふ縁のある顏と顏を殊更合はせる事を避けてゐた。みのるは時々義男の外套の下から風呂敷包みの頭が食み出てゐるのを見た。前の狹い外套の裾は膝の前で窮屈そうに割てゐた。みのるは顏を背向けると、その見窄らしい義男の姿を心に描いて電車の外の雨に濡れてゐる灯を見詰めてゐた。

 自分を憫れんでゐるやうな睫毛の瞬きが、ふるえて落ちる傘の雫の蔭にちら/\しながら、みのるは仲町のある横丁から出て來た。角の商店の明りの前に洋傘を眞つ直ぐにして立つて待つてゐた義男の傍に來た時、みのるの顏は何所となく囁き笑ひをしてゐた。
「うまくいつた?」
「大丈夫よ。」
 嵩張つた包みが二人の間から取れて、輕い紙幣が女のコートの衣兜《かくし》に殘つたといふ事が、二人を浮世の人間並みらしい感じに戻らせた。つい眼の前をのろ/\と横切つて行く雫を垂らした馬鹿氣て大きな電車を遣り過ごす間《うち》、今まで何所かへ押やられてゐた二人の間の親しみの義務を、この間《ま》にお互の中に取り戻しておかなくてはならないといふ樣な顏付きで、みのるは男の顏を見詰めてわざと笑つた。
「なんでもいゝや。」
 義男も腮《あご》の先きを片手で擦《こす》りながら笑つて云つた。けれども義男の眼にはみのるの笑顏が底を含んでるやうな鋭い影を走らしてゐたと思つていやな氣がしたのであつた。
「寒くつて。何か飮まなくちや堪らないわ。」
 みのるは義男の先きになつて歩いた。向側を見ると何の店先も雨に曇つて灯が濡れしほたれてゐた。番傘が通りの灯影を遮つてゆく――泥濘《ぬかるみ》の路に人の下駄の跡や車の轍の跡をぼち/\と光りを帶たはね[#「はね」に傍点]が飛んでゐた。
 二人は區役所の前の小さい洋食屋へ入つて行つた。
 室には一人も客はなかつた。鏡の前に行つて顏を映して見たみのるは、義男に呼ばれて暖爐の前に肩を突き合せながら手をあぶつた。みのるはこんな時義男がいぢけきつて、自分の貧しさをどん底の零落において情なく眺める癖のある事を知つてゐた。義男がからつぽの樣な瞼を皺つかして、頬の肉にだらりとした曲線を描きながらぼんやりと暖爐の火を見詰めてゐる義男の身體を、みのるは自分の肩でわざと押し轉がす樣に突いた。さうして義男の顏を横に見ながら、
「見つともない風をするもんぢやないわ。」
と云つて笑つた。義男は自分の見窄《みすぼ》らしさをからかつてゐる樣な女の態度に反感を持つて默つてゐた。こんな塲合にも自分だけは見窄らしい風はしまいといふ樣に白粉くさい張り氣を作つて、自分の情緒を燕脂《えんじ》のやうに彩らせやうとしてゐる女の心持がいやであつた。義男はふと、みのると一所になる前まで僅かの間同棲して暮らした商賣上りのある女の事を思ひだした。その女は毎晩男の爲めに酌の相手こそはしたけれども、貧しい時には同じ樣に二人の上を悲しんで、そうして仕事に疲れた義男を殆んど自分の涙で拭つてくれるやうな優しみを持つてゐた。浮いた稼業をしてゐた女だけども、みのるの樣に直きと、
「何うにかなるわ。」
と云ふ樣な捨て鉢な事は云つた事がなかつた。
「どうしたの。默つて。」
 みのるは自分の身體をゆら/\と搖らつかせながら、其の動搖のあほりを義男の肩に打つ衝けては笑つた。
「僕は今日不快な事があるんだ。」
 義男は暖爐の前に脊を屈めながら斯う云つた。
「なんなの。」
 義男の言葉は欝した調子を交ぜてゐたのに反して、みのるの返事は何處までも紅の付いた色氣を持つて浮いてゐた。
「××にね。僕の作の評が出てゐたんだ。」
「なんだつて。」
「陳腐で今頃こんなものを持ち出す氣が知れないつて云ふのだ。」
 みのるは聲を出して笑つた。
「仕方がないわね。」
「仕方がない?」
 義男は塲所も思はずに大きい聲を出してみのるの顏を睨んだ。みのるは默つて後を振返つたが、人のゐない室には斜《はす》に見渡したみのるの眼に食卓の白いきれが靡《なび》いて見えたばかりであつた。そうして、それ/″\に食卓の上に位置を守つてゐる玻璃器にうつつた灯の光りが、みのるの今何か考へてゐる心の奧に潜かに意を寄せてゐる微笑の影のやうにみのるに見えた。みのるは顏を眞正面《まとも》に返すと一人で又笑つた。
「君も然う思つてるんだね。」

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