然うだわ。」
 義男の腫れぼつたい瞼を一層縮まらした眼と、みのるの薄い瞼をぴんと張つた眼とが長い間見合つてゐた。
 みのるはその作を原稿で讀んだ時、
「おもしろいわ。結構だわ。」
と云つて義男の手に返したのであつた。義男が自分の仕事に自分だけの價値を感じてるだけ、みのるも相應に自分の仕事に心を寄せてゐるものと思つてゐた。それが急に冷淡な調子で、世間の侮蔑とその心の中を鳴り合せてゐる樣な餘所餘所《よそよそ》しい態度を、みのるが見せたといふ事が義男には思ひがけなかつた。經濟の苦しみに對する義男への輕薄な女の侮蔑が、こんなところにもその迸《ほとば》しりを見せたものとしきや義男には解されなかつた。
「君は隨分同情のない事を云ふ人だね。」
 しばらくして斯う云つた義男の眼は眞つ赤になつてゐた。給仕が持つて來た皿のものをみのるは身體を返して受取りながら何にも云はなかつた。

       三

「君はそんなに僕を下らない人間だと思つてゐるんだね。」
 二人は停車塲から出ると、眞つ闇な坂を何か云ひ合ひながら歩いてゐた。硝子に雨の雫を傳はらしてゐる街燈の灯はまるで暗い人間の隅つこに泣きそべつてゐる二人の影のやうに見えてゐた。
 二人が生活の爲の職業も見付からず、文學者としての自分の小さい權威も、何年か間《かん》の世間との約束からだん/\紛《はぐ》れて了つた事が義男にはいくら考へても情けなかつた。そうして自分の多年の仕事に背向いてゆく世間が憎いと一所に、その背向いた中の一人がみのるだつたと云ふ事にも腹が立つた。一人が一人に向つて石を抛《なげう》てば相手の女は抛つた方へその心を媚びさせて行くのだと思ふと、義男はあらゆる言葉で目の前の女を罵り盡しても足りない氣がした。義男はさつきのみのるの冷笑がその胸の眞中《まんなか》を鋭い齒と齒の間にしつかりと噛《くは》へ込んでる樣に離れなかつた。
「君はよくそんな下らない人間と一所にゐられるね。價値のない男をよく自分の良人だなんて云つてゐられるね。馬鹿にしてる男のまへでよく笑つた顏をして濟ましてゐられる。君は賣女より輕薄な女だ。」
 義男は斯う云ひ續けてずん/″\歩いて行つた。みのるは默つて後から隨いて行つた。みのるの着物の裾はすつかり濡れて、足袋と下駄の臺のうしろにぴつたり密着《くつつ》いては歩行《あゆみ》のあがきを惡るくしてゐた。早い足の義男には迚《と》ても追ひ付く事が出來なかつた。
 漸くみのるが家内《うち》にはいつて行つた時は、もう義男は小さい長火鉢の前に横になつてゐた。みのるは買つて來た小さいパンを袋から出して、土間の中まで追つて來たメエイに捩《ちぎ》つて投げてやりながら、態《わざ》といつまでも明りのついた義男の方を向かずにゐた。
「おい。」
 義男は鋭い聲でみのるを呼んだ。
「なに。」
 然う云つてからみのるは小犬を撫でたり、
「一人ぼつちで淋しかつたかい。」
と話をしたりして其所から入つてこなかつた。義男はいきなり立つてくると足を上げてみのるの膝の上に頭を擡《もた》せてゐた犬の横腹を蹴つた。
「外へ出してしまへ。」
 義男はさも命令の力を顏の筋肉にでも集めてるやうに、「出せ」と云ふ意味を示すやうな腮《あご》の突き出しかたをすると、その儘其所に突つ立つてゐた。小犬は蹴られた義男の足の下まで直ぐ這ひ寄つてきて、そうして足袋の先きに齒を當てながらじやれ[#「じやれ」に傍点]付かうとした。
「あつちへお出で。」
 みのるは小犬の頸輪《くびわ》を掴むと、自分の手許まで一度引寄せてから、雨の降つてる格子の外へ抛り付ける樣に引つ張りだした。そうして戸を締めて内へ入つてくると舊《もと》のやうに火鉢の前に寢轉んでゐた義男の前に坐つて、涙と一所に突き上つてくる呼吸を唇を堅く結んで押へてゐる樣な表情をしてその顏を仰向かしてゐた。
「別れてしまはうぢやないか。」
 義男は然う云つて仰《あを》になつた。
 放縱な血を盛つた重いこの女の身體が、この先き何十年と云ふ長い間を自分の脆弱な腕の先きに纒繞《まつは》つて暮らすのかと思ふと、義男はたまらなかつた。結婚してからの一年近くのたど/\しい生活の中を女の眞實をもつた優しい言葉に彩られた事は一度もなかつたと思つた。振返つて見ると、その貧しい生活の中心には、いつもみだらな血で印を刻した女のだらけた笑ひ顏ばかりが色を鮮明《あざやか》にしてゐた。そうして柔かい肉をもつた女の身體がいつも自分の眼の前にある匂ひを含んでのそ/\してゐた。
「僕見たいなものにくつつい[#「くつつい」に傍点]てゐたつて、君は何うする事も出來やしないよ。僕には女房を養つてゆくだけの力はない。自分だけを養ふ力もないんだから。」
「知つてるわ。」
 みのるは、はつきりと斯う云つた。唇を開くとその眼から涙があふれた。
「ぢや別れやうぢやないか。今の内に別れてしまつた方がお互ひの爲だ。」
「私は私で働きます。その内に。」
 二人は暫時《しばし》だまつた。
 この家の前の共同墓地の中から、夜るになると人の生を呪ひ初める怨念のさゝやきが、雨を通して傳はつてくる樣な神經的のおびえがふと默つた二人の間に通つた。
「働くつて何をするんだい。君はもう駄目ぢやないか。君こそ僕よりも脉《みやく》がない。」
 義男は斯う云つてから、みのると同じ時代に同じやうな文藝の仕事を初めた他の女たちを擧げて、そうして現在の藝術の世界を今も花やかに飾つてるその女たちを賞めた。
「君は出來ないのさ。僕が陳《ふる》ければ君だつて陳いんだから。」
 みのるは默つて泣いてゐた。不仕合せに藝術の世界に生れ合はせてきた天分のない一人の男と女が、それにも見捨てられて、そうして窮迫した生活の底に疲れた心と心を脊中合せに凭れあつてゐる樣な自分たちを思ふと泣かずにはゐられなかつた。
「君は何を泣いてるんだ。」
「だつて悲しくなるぢやありませんか。復讐をするわ。あなたの爲に私は世間に復讐するわ。きつとだから。」
 みのるは泣きながら斯う云つた。
「そんな事が當てになんぞなるもんか。働くなら今から働きたまへ。こんな意氣地のない良人の手で遊んでるのは第一君の估券が下る。君が出來るといふ自信があるなら、君の爲に働いた方がいゝ。」
「今は働けないわ、時機がこなけりや。そりや無理ぢやありませんか。」
 みのるは涙に光つてる眼を上げて義男の顏を見た。義男の見定められない深い奧にいつかしら一人で突き入つて行く時があるのだと云ふ樣な氣勢《けはひ》が、その眼の底に現はれてゐるのを見て取ると、義男の胸には又反感が起つた。
「生意氣を云つたつて駄目だよ。何を云つたつて實際になつて現はれてこないぢやないか。それよりや別れてしまつた方がいゝ。」
 義男は打《ぶ》ち切るやうに斯う云ふと奧の座敷へ自分で寐床をこしらへに立つて行つた。
 みのるは男の動く樣子を此方《こつち》から默つて見てゐた。義男は片手で戸棚から夜着を引き下すと、それを斜《はす》つかけに摺《ず》り延ばして、着た儘の服裝《なり》でその中にもぐり込んで了つた。その冷めたそうな夜着の裾を眺めてゐたみのるは、自分たちが火の氣もないところで長い間云ひ爭つてゐた事にふと氣が付いて急に寒くなつたけれども、やつぱり懷ろ手をした儘で冷えてきた足の先きを着物の裾にくるみながら、いつまでも唐紙のところに寄つかゝつてゐた。そうして兎もすると、男が自分一人の力だけでは到底持ちきれない生活の苦しさから、女をその手から彈きだそう彈きだそうと考へてゐる中を、かうして縋り付いてゐなければならない自分と云ふものを考へた時、みのるの眼には又新らしい涙が浮んだ。
 義男の力が、みのるの今まで考へてゐた男と云ふものゝ力の、層《そう》にしたならその一《ひ》と層《かい》にも足りない事をみのるは知つてゐた。その頼りない男の力にいつまでも取り縋つてはゐたくなかつた。自分も何かしなければならないと云ふ取りつめた考へによく迫られた。けれどもみのるは何も働く事が出來なかつた。義男が今みのるに云つた樣に、義男の前にみのるは何《なに》も爲《し》て見せるだけの力量を持つてゐなかつた。自分の内臟を噛み挫《ひし》いでもやり度いほどの口惜《くや》しさばかりはあつても、みのるは何も爲る事も出來なかつた。みのるは矢つ張りこの力のない男の手で養つてもらはなければならなかつた。
 みのるは溜息をしながら立上ると義男の寢床の方へづか/″\と歩いて行つた。そうして其の夜着を右の手を出して刎《は》ね退《の》けた。
「私も寢るんですから。夜具を下さい。」
 二人の仲には一と組の夜のものしきや無かつた。義男はその聲を聞くと直ぐに起きて枕許の眼鏡を探してゐたが、寢床を離れる時に、
「寢たまへ。」
と云つて又茶の間の方へ出て行つた。その男の後を少時《しばらく》見てゐたみのるは丸まつてゐる樣な蒲團を丁寧に引き直してから、自分の枕を持つて來てその中にはいつた。
 みのるは床に入つてから、粘りのない生一本の男の心と、細工に富んだねつちりした女の心とがいつも食ひ違つて、さうして毎日お互を突つ突き合ふ樣な爭ひの絶へた事のない日を振返つて見た。そこには、自分の紅總《べにふさ》のやうに亂れる時々の感情を、その上にも綾《あや》してくれるなつかしい男の心と云ふものを見付け出す事が出來なかつた。

       四

 義男がやつとある職業に就いたのは櫻の咲く頃であつた。自分たちの生活の資料を得る爲に痩せた力のない身體を都會の眞中まで運んでゆく義男の姿を、みのるは小犬を連れて毎朝停車塲まで送つて行つた。時にはその電車の窓へ向けて、戀人のやうに女の唇からキスを送る白い手先きが、温い日光の影を遮る事もあつた。みのるは小犬に話をしかけながら墓地を拔けて歸つてくるのが常だつた。そうして二階の窓を開け放つて、小供の爪の先きが人の肉體をこそこそと掻きおろしてくる樣なきつい温さを含んだ日光に額をさらしながら、みのるは一日本を讀んで暮らした。讀書からみのるの思想の上に流れ込んでくる新らしい文字も、みのるは自分一人して味はふ時が多かつた。そうして頁から頁への藝術の匂ひの滴つた種々な塲景が、とりとめのない憧憬の爲に揉み絹のやうに萎えしぼんだみのるの心を靜に遠く幻影の世界に導いてゆく時、みのるは興奮して、その頬を一寸傷づけても血の流れさうな逆上した頬をして、さうして墓地の中を歩き廻つた。袖にさわつた茨《ばら》の小枝の先きにも心を惹かれるほど、みのるの心は何も彼《か》も懷しくなつて涙が溢れた。無暗《むやみ》と騷ぎ立つ感情の押へやうもなくなつて、誰とも知らない墓塲の石にその額を押し付けた事もあつた。ぬきんでた樣な青い松と、むらがつてる樣な咲き亂れた櫻と、夕暮れの空の濃い隈をいろどつてゐる天王寺のあたりを、みのるは涙を溜めながら行つたり來たりした。

 ある晩二人は上野の山をぶら/\と歩いてゐた。櫻の白い夜の空は淺黄色に晴れてゐた。森の中の灯は醉ひにかすんだ美しい女の眼のやうに、おぼろな花の間に華やかな光りと光りを目交《めま》ぜしてゐた。
「いゝ晩だわね。」
 みのるは然う云つて、思ふさま身振りをして見せると云ふ樣な身體付きをしてはしやいで歩いてゐた。この山の森の中にそつくり秘められてゐた幾千人の戀のさゝやきが春になつて櫻が咲くと、靜な山の彼方此方《あちこち》から櫻の花片《はなびら》の一とつ/\にその優しい餘韻を傳はらせ初めるのだと思つた時に、みのるの胸は微かに鳴つた。みのるは天蓋のやうに枝を低く差し延べた櫻の木の下に、わざわざ兩袖をひろげて立つて見たりした。そうして花の匂ひに交ぢつたコートの古るい香水の匂ひを、みのるはなつかしいものゝ息に觸れるやうに思ひながら、兎もすると捉みどころもなく消えそうになる香りを一と足一と足と追つてゐた。
 義男は義男で、堅い腕組みをして素つ氣のない顏をしながらみのると離れてぽつ/\と歩《あ》るいてゐた。義男の頭について廻つてゐる貧乏と云ふ觀念が、夜の花の蔭を逍遙しても何の興味も起らせなかつた。長い間の窮迫に外に出る着物の融通
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