もつかなかつたみのるは、平生着《ふだんぎ》の上にコートだけを引つかけて歩いていた。その貧しいみのるの姿を後から眺めた時の義男の眼には、かうした舞臺ですべてを忘れてはしやいでゐるみのるの樣子は、醜さを背景にした馬鹿々々しさであつた。
「もう歸らうぢやないか。」
 義男は斯う云つては足をとめた。
 二人は環のやうに取りめぐつてゐる池の向ふの灯を、山の上から眺めながら少しの間立つてゐた。その灯がさゞめいてるのかと思はれる樣な遠い三味線《さみせん》の響きが、二人の胸をそはつかした。みのるは不圖、久し振りな柔らかい着物の裾の重みの事を思つて戀ひしかつた。みのるの東下駄《あづまげた》の先きでさばいてゐた裾はさば/\として寒かつた。
「吉原で懇親會をやるんだそうだ。」
 義男は斯う云つて歩きだした。明りの色が空を薄赤く染めてゐる廣小路の方を後《うしろ》にして、二人は谷中の奧へ足を向け直した。遠い町で奏でゝゐる樂隊の騷々しい音が山の冷えた空氣に統一されて、二人の耳許を觀世水のやうにゆるく襲つては櫻の中に流れて行つた。みのるの胸には春と云ふ陽氣さがいつぱいに溢れた。そうしてこの山の外《そと》に、春の晩に醉ひ浮かれた賑やかな人々のどよめきの世界があるのだと思つた。その中に踏み入つて行く事の出來ない自分の足許を見た時にみのるは何とも云へず寂しくなつた。
「どうかして一日人間らしくなつて遊びまわつて見たいもんだわね。」
 みのるは斯う云はうとして義男の方を見た時に、丁度二人の傍を三保の松原を走らせた天の羽車のやうな靜さで、一臺の車が通つて行つた。薄暗い壁に貼りつけた錦繪を覗いて見るやうに、幌の横から紅の濃い友禪模樣の美しい色が二人の眼を遮つていつた。そうして春の驕りを包んだ車の幌は、唯ゆら/\と何時までも二人の眼の前から消えなかつた。
 みのるは其れ限《ぎ》り何も云はずにゐた。默つてゐる男が今どんな夢の中にその心のすべてを解《ほど》かしてゐるのだらうかと云ふ事を考へながら、みのるはいつまでも默つて歩いてゐた。

       五

 義男にもみのるにも恩の深い師匠の夫人が遂に亡くなつたと云ふ知らせが二人の許にとゞいたのは、四月の末のある朝であつた。
 義男が一張羅の洋服で出てしまふと、仲町から自分たちの衣服を取り出してくるだけの豫算を立てゝゐたみのるは、何うにもその融通の出來ない見極めをつけると、小石川の友達のところへでも行つてくるより仕方がないと思つたみのるは好い口實を作る事を考へながら出て行つた。
 友達の家の塀際には咲き揃つた櫻が何本か並んで家の富裕を誇るやうに往來の方に枝を垂れてゐた。みのるは其家《そこ》の主人の應接|室《ま》で久し振りな顏を友達と合はせた。みのるには自分が借りるのだといふ事が何うしても云へなかつた。一人身ならば自分が借りると云へるのだけれども、一家を持つてゐるものが主人の面目を考へても、そんな貧しい事は云はれるものではないと云ふ考へがみのるの頭の中を行つたり來たりしてゐた。
 利口な友達は人の惡るい臆測は女の嗜《たしな》みではないといふ樣なおとなしい笑顏を作つて、みのるの手から他の知人へ貸すといふのを眞に受けたらしい樣子を示しながら、一と襲ねの紋付を出して來た。
「お葬式は黒でなくちやいけないけれども、生憎私には黒がないから。」
 友達の出した紋付は薄い小豆色だつた。裾には小蝶の繍《ぬ》ひがあつた。

 その日は雨が降つてゐた。みのるは白木蓮の花を持つて、吾妻橋の渡船塲《わたしば》から船に乘つた。船が岸を離れた時のゆるやかな心の辷《すべ》りの感じと一所にみのるの胸には六七年前の追懷の影が射してゐた。船の中からみのるは思ひ出の多い堤を見た。櫻時分の雨の土堤にはなくてならない背景の一とつの樣に、茶屋の葭簀《よしず》が濕《ぬ》れしよぼれた淋しい姿を曝してゐた。そうして梳《くしけず》つたやうな細い雨の足が土堤から川水の上を平面にさつと掠《かす》つてゐた。みのるは又、船が迂曲《うね》りを打つてはひた/\と走つてゆく川水の上に眞つ直ぐに眼を落した。自分の青春はこの川水のさゞなみに、何時ともなくぢり/\と浸し消されてしまつた樣な悲しみがそこに映つてゐた。深い思ひを抱いてうつら/\と逍遙《さまよ》つた若いみのるの顏の上に雫を散らした堤《どて》の櫻の花は、今もあゝして咲いてゐた。それがみのるには又誰かの若い思ひを欺かうとする無殘な微笑の影のやうに思はれてそこにも恨みがあつた。
 言問《こととひ》から上にあがると、昔の涙の名殘りのやうに、櫻の雫がみのるの傘の上に音を立てゝ振りこぼれた。土堤の中途でみのると同じ行先きへ落合はうとする舊い知人の二三人に出逢ひながら、師匠の門を潜《くゞ》つた時は、義男と約束した時間よりもおくれてゐた。
 中に入ると人々の混雜が、雨の軒端《のきば》に陰にしめつたどよみを響かしてゐた。表から差覗《さしのぞ》かれる障子は何所も彼所《かしこ》も開け放されて、人の着物の黒や縞が塊《かた》まり合つて椽の外にその端を垂らしてゐた。裏手の格子戸の内に泥のついた下駄がいつぱいに脱ぎ散らしてあつた。みのるは臺所で見付けた昔馴染の老婢に木蓮を渡してから上《あが》り端《はな》の座敷の隅にそつと入つて坐つた。そこでは母親に殘された小さい小供たちが多勢の女の手に、悲しそうな言葉で可愛《いと》しまれながら抱かれてゐた。總領の娘も其所に交ぢつて、障子の外へ出たり入つたりする人々を眺めてゐた。昔みのるがお手玉を取つたり鞠を突いたりして遊び相手になつた總領の娘は、何年も親しく逢つた事のないみのるの顏を見ると、その眼を赤く腫らした蒼い顏に笑みを作つて挨拶した。みのるの眼はいつまでもこの娘の姿から離れなかつた。
「この子はあなたの眞似が上手。」
 みのるに然う云つて師匠が笑つた時は、まだ四才ぐらゐの子であつた。みのるの例《いつ》もするやうに風呂敷包みを持つて、氣取つたお辭儀をしてから、
「これはみのるたん[#「みのるたん」に傍点]だよ。」
と云つてみんなを笑はせた。幼ない時から高い鼻の上の方の兩端へ幾つも筋が出る樣な笑ひかたをする子であつた。みのるはこの娘のこゝまで成長して來たその背丈《せいだけ》の蔭に、自分の變つた短い月日を繰り返して見て果敢ない思ひをしずにはゐられなかつた。
「おい。」
 みのるは斯う呼ばれて振返ると、椽側に立つた義男は腮《あご》でみのるを招いてゐた。傍へ行くと義男は、
「これから社へ行つて香奠《かうでん》を借りてくるからね。」
と小さい聲で云つた。
「いくらなの。」
「五圓。」
 二人は笑ひながら斯う云ひ交はすと直ぐ別れた。みのるは其室《そこ》を出て彼方此方《あちこち》と師匠の姿を求めてゐるうちに、中途の薄暗い内廊下で初めて師匠に出逢つた。顏もはつきりとは見得ないその暗い中を通して、みのるは師匠の涙に漲つた聲を聞いたのであつた。
「あなたの身體はこの頃丈夫ですか。」
 師匠はみのるが別れて立たうとする時に斯う云つて尋ねた。みのるは昔の脆い師匠のおもかげを見た樣に思つてその返事が涙でふさがつてゐた。

       六

 その晩みのるは眠れなかつた。いつまでもその胸に思ひ出の綾が色を亂してこんがらかつてゐた。そうしてある春の日に師匠から送られた西洋すみれの花の匂ひが、みのるのその思ひ出に甘くまつはつて懷かしい思ひの血の鳴りを響かしてゐた。
 あのなつかしい師匠に離れてからもう何年になるだらうかと思つてみのるは數へて見た。師匠の手をはなれてからもう五年になつた。そうして師匠の慈愛に甘へて一途にその人を慕ひ騷いだ時からはもう八年の月日が經つてゐた。その頃のみのるの生命は、あの師匠の世態に研ぎ澄まされたやうな鋭い光りを含んだ小さい眼のうちにすつかりと包まれてゐたのであつた。その師匠の手をはなれてはみのるの心は何方へも向けどころのないものと思ひ込んでゐた。そうして船で毎日の樣に向島まで通つたみのるは行くにも歸るにも渡しの棧橋に立つて、滑かな川水の上に一と滴の思ひの血潮を落し/\した。
 それほどに慕ひ仰いだ師匠の心に背向いて了はねばならない時がみのるの上にも來たのであつた。其れはみのるが實際に生きなければならないと云ふほんとうの生活の上に、その眼が知らず/\開けて來た時であつた。毎日師匠の書齋にはいつて書物の古い樟腦の匂ひを嗅ぎながら、いゝ氣になつて遊んでばかりゐられない時が來たからであつた。そうして師匠の慈愛が、自分のほんとうに生きやうとする心の活《はた》らきを一時でも痲痺《しび》らしてゐた事にあさましい呪ひを持つやうな時さへ來た。この師匠の手をはなれなければ自分の前には新らしい途が開けないものゝ樣に思つて、みのるはこの慈愛の深い師匠の傍を長い間離れたけれども、その後のみのるの手に、目覺めたと云ふ證徴《しるし》を持つた樣な新らしい仕事は一とつとして出來上つてはゐなかつた。みのるはその頃の自分を圍《かこ》ふやうな師匠の慈愛を思ひ出して、いたづらな涙にその胸を潤ほす日が多かつた。そうして唯一人の人へ對する堅い信念に繋がれて傍目《わきめ》もふらなかつた幼ない昔を、世間といふものから常に打ち叩かれてゐる樣なこの頃のみのるの心に戀ひしく思ひ出さない日と云つてはないくらゐであつた。
 今夜は殊にその思ひが深かつた。みのるは今日の、夫人の棺前の讀經を聞きながら泣き崩れる樣にして右の手でその顏を掩ふてゐた師匠の姿を、いつまでも思つてゐた。義男はその晩通夜に行つて歸つてこなかつた。

「その紋付は何うしたの。」
 一と足先きに葬式から歸つてゐた義男は、みのるが歸つてくるのを待つてゐて直ぐ斯う聞いた。みのるは今日の式塲で義男の縞の洋服がたつた一人目立つてゐた事を考へながら默つて笑つた。
「借りたの。」
 うなづいたみのるも、うなづかれた義男も、同じ樣に極りの惡るそうな顏をした。こんな時にお互に禮服の一とつも手許にないと云ふ事がれい/\とした多くの人の集まつた後では特《こと》に強く感じられてゐた。
「あなたの服裝《なり》は困つたわね。」
「まあいゝさ、君さへちやん[#「ちやん」に傍点]としてゐれば。」
 義男は然う云つてから、もう一度みのるの借着の姿を見守つた。義男はそれを何所から借りたのかと聞いたけれども、みのるは小石川から借りたとは云はなかつた。舊《もと》の學校の友達から然うした外見《みつとも》ない事を爲《し》たと云つたなら、義男は猶厭な思ひがするであらうと思つたからであつた。みのるは自分の許へ親類の樣に出入りしてゐる商人の家の名を云つて、其所から都合して貰つたのだと云つた。そうして、何時も困つてゐるといふ噂のある義男の友人の妻君が、ちやんとしてゐた事をみのるは思ひ出して感心した顏をして義男に話した。
「私たちみたいに困つてゐる人はお友達の中にもないと見えるわ。」
「然うだらう。」
 義男は然う云つて着てゐた洋服を脱いだ。そうして少時《しばらく》ズボンの裾を引つくり返して見てから、
「これもこんなに成つてしまつた。」
と云ひながらその摺《す》り切れたところをみのるに見せた。秋か春に着るといふ洋服を義男は暑い時も雪の降る時も着なければならなかつた。そうして何か事のある度にこの肩幅の廣い洋服を着てゆく義男の事を思つた時、今日のみのるは例の癖のやうに自分どもの貧しさを一種の冷嘲で打消して了ふ譯にはいかなかつた。さん/″\悲しみの光景に馴らされてきたその心から、眞から哀れつぽく自分たちの貧しさを味はふやうな涙がみのるの眼にあふれてきた。
「可哀想に。」
 みのるは彼方《あちら》を向いて、自分も着物を着代へながら然う云つた。世間を相手にして自分たちの窮乏を曝さなければならない樣な羽目になると、二人は斯うしていつか知らず其の手と手を堅く握り合ふやうな親しさを見せ合ふのだとみのるは考へてゐた。
「何うかして君のものだけでも手許へ置かなけりや。」
 義男は然う云ひながら入湯に出て行つた。一人になるとみのるは今日の葬列の模樣などが其の眼の前に浮んで來た。花の
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