土堤をその列が長く續いて行く途中で、目かづらを被つて泥濘《ぬかるみ》の中を踊りながら歩いてゐる花見の群れに幾度か出《で》つ會《くは》した。そうして醉漢の一人がその列を見送りながら、丁度みのるの乘つてゐた車の傍で、
「皆さんお賑やかな事で。」
と小聲で云つてゐた事などが思ひ出された。みのるは義男が歸つて來たならばそれを話して聞かそうと思つた。柩の前に集つた母親を失つた小さい人々を見て、みのるもさん/″\泣かされた一人であつたけれ共、その悲しみはもう何所かへ消えてゐた。

       七

 みのるの好きな白百合の花が、座敷の床の間や本箱の上などに絶へず挿されてゐる樣な日になつた。義男の休み日には小犬を連れて二人は王子まで青い畑を眺めながら遠足する事もあつた。紅葉寺の裏手の流れへ犬を抛り入れて二人は石鹸の泡に汚れながらその身體を洗つてやつたりした。流れには山の若楓の蒼さと日光とが交ぢつて寒天のやうな色をしてゐた。その濕《ぬ》れた小犬を山の上の掛茶屋の柱に鎖で繋いでおいて、二人は踏んでも歩けそうな目の下一面の若楓を眺めて半日暮らしたりした。その往き道にある別宅らしい人の家の前に立つと、その檜葉《ひば》の立木に包まれた薄鼠塗りの洋館の建物の二階が横向きに見えるのを見上げながら義男は「何も要らないからせめて理想の家だけは建てたい。」といつも云つた。みのるが頻りに髮を弄《いぢ》り初めたのもその頃であつた。みのるは一日置きのやうに池の端の髮結のところまで髮を結にゆく癖がついた。みのるの用箪笥の小抽斗《こひきだし》には油に染《そ》んだ緋絞りのてがらの切れが幾つも溜つてゐた。
 こんな日の間にも粘りのない生一本な男の心の調子と、細工に富んだねつちりした女の心の調子とはいつも食ひ違つて、お互同士を突つ突き合ふやうな爭ひの絶えた事はなかつた。女の前にだけ負けまいとする男の見得と、男の前にだけ負けまいとする女の意地とは、僅の袖の擦り合ひにも縺《もつ》れだして、お互を打擲《ちやうちやく》し合ふまで罵り交はさなければ止まないやうな日はこの二人の間には珍らしくなかつた。みのるの讀んだ書物の上の理解がこの二人に異つた味ひを持たせる時などには、二人は表の通りにまで響ける樣な聲を出して、それが夜の二時であつても三時であつても構はず云ひ爭つた。そうして、終ひに口を閉ぢたみのるが、憫れむやうな冷嘲《あざ》ける樣な光りをその眼に漲らして義男の狹い額をぢろ/\と見初めると、義男は直ぐにその眼を眞つ赤にして、
「生意氣云ふない。君なんぞに何が出來るもんか。」
 斯う云つて土方人足が相手を惡口する時の樣な、人に唾でも吐きかけそうな表情をした。斯うした言葉が時によるとみのるの感情を亢ぶらせずにはおかない事があつた。智識の上でこの男が自分の前に負けてゐると云ふ事を誰の手によつて證明をして貰ふ事が出來やうかと思ふと、みのるは味方のない自分が唯情けなかつた。そうして、
「もう一度云つてごらんなさい。」
と云つてみのるは直ぐに手を出して義男の肩を突いた。
「幾度でも云ふさ。君なんぞは駄目だつて云ふんだ。君なんぞに何が分る。」
「何故。どうして。」
 ここまで來ると、みのるは自分の身體の動けなくなるまで男に打擲されなければ默らなかつた。
「あなたが惡るいのに何故あやまらない。何故あやまらない。」
 みのるは義男の頭に手を上げて、強ひてもその頭を下げさせやうとしては、男の手で酷《ひど》い目に逢はされた。
「君はしまひに不具者《かたは》になつてしまふよ。」
 翌《あく》る日になると、義男はみのるの身體に殘つた所々の傷を眺めて斯う云つた。女の軟弱な肉を振り捩斷《ちぎ》るやうに掴み占める時の無殘さが、後になると義男の心に夢の樣に繰り返された。
 それは晝の間に輕い雨の落ちた日であつた。朝早く澤山の洗濯をしたみのるはその身體が疲れて、肉の上に板でも張つてある樣な心持でゐた。軒の近くを煙りの樣な優しい白い雲がみのるの心を覗《のぞ》く樣にしては幾度も通つて行つた。初夏の水分を含んだ空氣を透す日光は、椽に立つてるみのるの眼の前に色硝子の破片を降り落してゐる樣な美しさを漲らしてゐた。何となく蒸し暑い朝であつた。みのるのセルを着てゐたその肌觸りが汗の中をちく/\してゐた。
 それが午後になつて雨になつた。みのるは干し物を椽に取り入れてから、又椽に立つて雨の降る小さな庭を眺めた。この三坪ばかりの庭には、去年の夏義男が植えた紫陽花《あぢさゐ》が眞中に位置を取つてゐるだけだつた。黄楊《つげ》の木の二三本に霰《あられ》のやうなこまかい白い花がいつぱいに咲いてゐるのが、隅の方に貧しくしほらしい裝ひを見せてゐたけれ共、一年の内に延びてひろがつた紫陽花の蔭がこの庭の土の上には一番に大きかつた。その外には何もなかつた。輕い雨の音はその紫陽花の葉に時々音を立てた。みのるはその音を聞き付けるとふと懷しくなつて其所に降る雨をいつまでも見詰めてゐた。
 義男がいつもの時間に歸つて來た時はもうその雨は止んでゐた。みのるは義男の歸つてからの樣子を見て、その心の奧に何か底を持つてゐる事に氣が付いてゐた。
「おい、君は何《ど》うするんだ。」
 みのるが夜るの膳を平氣で片付けやうとした時に義男は斯う聲をかけた。
「何故君は例の仕事をいつまでも初めないんだね。止すつもりなのか。」
 其れを聞くとみのるは直ぐに思ひ當つた。
 一週間ばかり前に義男は勤め先きから歸つてくると「君の働く事が出來た。」と云つて新聞の切り拔きをみのるに見せた事があつた。それは地方のある新聞でそれに懸賞の募集の廣告があつた。みのるがそれ迄に少しづゝ書き溜めておいた作《もの》のある事を知つてゐた義男は、それにこの規程《きてい》の分だけを書き足して送つた方が好いと云つてみのるに勸めたのであつた。
「もし當れば一と息《いき》つける。」
 義男は斯う云つた。けれどもみのるは生返事をして今日まで手を付けなかつた。それに義男がその仕事を見出した時はもう締めきりの期日に迫つてしまつた時であつた。その僅の間にみのるには兎ても思ふ樣なものは書けないと思つたからであつた。
「何故書かないんだ。」
 義男はその口を神經的に尖《とが》らかしてみのるに斯う云ひ詰めた。
「そんな賭け見たいな事を爲るのはいやだから、だから書かないんです。」
 みのるの例の高慢な氣《け》振りがその頬に射したのを義男は見たのであつた。
 みのるはその萬一の僥倖によつて、義男が自分の經濟の苦しみを免《のが》れ樣と考へてゐる事に不快を持つてゐた。この男は女を藝術に遊ばせる事は知らないけれども、女の藝術を賭博の樣な方へ導いて行つて働かせる事だけは知つてゐるのだと思ふと、みのるは腹が立つた。
「そんな事に使ふやうな荒れた筆は持つてゐませんから。」
 みのるは又斯う云つた。
「生意氣云ふな。」
 斯う義男は怒鳴りつけた。女の高慢に對する時の義男の侮蔑は、いつもこの「生意氣云ふな。」であつた。みのるはこの言葉が嫌ひであつた。義男を見詰めてゐたみのるの顏は眞つ蒼になつた。
「君は何と云つた。働くと云つたぢやないか。僕の爲に働くと云つたぢやないか。それは何うしたんだ。」
「働かないとは云ひませんよ。けれども私が今まで含蓄しておいた筆はこんなところに使はうと思つたんぢやないんですからね。あなたが何でも働けつて云なら電話の交換局へでも出ませうよ。けれどもそんな賭け見たいな事に私の筆を使ふのはいやですから。」
 義男は突然《いきなり》、手の傍にあつた煙草盆をみのるに投げ付けた。
「少しも君は我々の生活を愛すつて事を知らないんだ。いやなら止せ。その云ひ草はなんだ。亭主に向つてその云ひ草はなんだ。」
 義男は然う云ひながら立上つた。
「そんな生活なら何も彼《か》も壞しちまへ。」
 義男は自分の足に觸つた膳をその儘蹴返すと、みのるの傍へ寄つて來た。みのるはその時ほど男の亂暴を恐しく豫覺した事はなかつた。「何をするんです。」と云つた金を張つたやうな細い透明なみのるの聲が、義男の慟悸の高い胸の中に食ひ込む樣に近くなつた時に、みのるは有りだけの力をその兩腕に入れて義男の胸を向ふへ突き返した。そうしてから、初めてこの男の恐しさから逃れるといふ樣な心持で、みのるは勝手口の方から表へ駈けて出た。

 外はまだ薄暮の光りが全く消えきらずに洋銀の色を流してゐた。殊更な闇がこれから墓塲全體を取り繞《めぐ》らうとするその逢魔《あふま》の蔭にみのるは何時までも佇んでゐた。ぢいん[#「ぢいん」に傍点]とした淋しさが何所からともなくみのるの耳の傍に集まつてくる中に、障子や襖を蹴破つてゐる樣な氣魂《けたゝま》しい物の響きが神經的に傳はつてゐた。
 然うして絹針のやうに細く鋭い女の叫喚《さけび》の聲がその中に交ぢつてゐる樣な氣もした。それが自分の聲のやうであつた。みのるの身體中の血は動いた儘にまだゆら/\としてゐた。何所かの血管の一部にまだその血が時々どんと烈しい波を打つてゐた。けれどもみのるは自分の心の脉《みやく》を一とつ/\調べて見る樣なはつきりした氣分で、自分の頭の上に乘しかゝつてくる闇の力の下に俯向いて、しばらく考へてゐた。さうして、その清水に浸つてゐる樣な明らかな頭腦《あたま》の中に、
「自分どもの生活を愛する事を知らない。」
と云つた義男の言葉がさま/″\な意味を含んでいつまでも響いてゐた。
 みのるは全く男の生活を愛さない女だつた。
 その代り義男はちつとも女の藝術を愛する事を知らなかつた。
 みのるはまだ/\、男と一所の貧乏《きうぼう》な生活の爲に厭な思ひをして質店《しちみせ》の軒さへ潜《くゞ》るけれども、義男は女の好む藝術の爲に新らしい書物一とつ供給《あてが》ふ事を知らなかつた。義男は小さな自分だけの尊大を女によつて傷づけられまい爲に、女が新らしい智識を得ようと勉める傍でわざとそれに辱ぢを與へる樣な事さへした。新らしい藝術にあこがれてゐる女の心の上へ、猶その上にも滴《したゝ》るやうな艶味《つや》を持たせてやる事を知らない義男は、たゞ自分の不足な力だけを女の手で物質的に補はせさへすればそれで滿足してゐられる樣な男なのだと云ふ事が、みのるの心に執念《しふね》く繰り返された。
「私があなたの生活を愛さないと云ふなら、あなたは私の藝術を愛さないと云はなけりやならない。」
 先刻《さつき》義男に斯う云つてやるのだつたと思つた時に、みのるの眼には血がにじんで來るやうに思つた。
 男の生活を愛する事を知らない女と、女の藝術を愛する事を知らない男と、それは到底一所のものではなかつた。義男の身にしたら、自分の生活を愛してくれない女では張合のない事かも知れない。毎日出てゆく義男の蟇《がま》口の中に、小さい銀貨が二つ三つより以上にはいつてゐた事もなかつた。それを目の前に見て上の空な顏をしてゐる事が出來るみのるは、義男に取つては一生を手を繋いでゆく相手の女とは思ひやうも無い事かも知れなかつた。
「二人は矢つ張り別れなければいけないのだ。」
 みのるは然う思ひながら歩き出した。初めて、凝結してゐた瞳子《ひとみ》の底から解けて流れてくる樣な涙がみのるの頬にしみ/″\と傳はつてきた。
 みのるの歩いてゆく前後には、もう動きのとれない樣な暗闇がいつぱひに押寄せてゐた。その顏のまわりには蚊の群れが弱い聲を集めて取り卷いてゐた。振返ると、その闇の中に其方此方《そちこち》と突つ立てゐる石塔の頭が、うよ/\とみのるの方に居膝《ゐざ》り寄つてくる樣な幽な幻影を搖がしてゐた。みのるは自分一人この暗い寂しい中に取殘されてゐた氣がして早足に墓地を繞《めぐ》つてゐる茨垣《ばらがき》の外に出て來た。
 其邊をうろついてゐたメエイが其所へ現はれたみのるの姿を見附けると飛んで來てみのるの前にその顏を仰向かしながら、身體ぐるみに尾を振つて立つた。突然この小犬の姿を見たみのるは、この世界に自分を思つてくれるたつた一とつの物の影を捉へたやうに思つて、その犬の體を抱いてやらずにはゐられなかつた。
「有
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