。さうしてその作の中からいゝと思つた所を拾ひ出して賞めた。
みのるにはこの文學士のどこか藝術趣味の多い言葉に醉はされながら聞いてゐた。さうしてこゝにも自分に運を與へたといふ樣な顏をする人が一人居ると思つた。
今噂した有野といふ文學士が丁度來合せた。その人は痩せた膝を窄《すぼ》める樣に小さく坐つて、片手で顏を擦りながら物を云ひ/\した。
「けれどもね。けれどもね。」といふ口癖があつた。その「ね」といふ響きと、だん/″\に顏の底から笑ひを染《し》み出させて來る樣な表情とに、人を惹きつける可愛らしさがあつた。
みのるはこの中にゐて、久し振りに自分の感情が華やかに踊つてゐる樣な氣がした。簑村と有野は、各自《てんで》に頭の中で考へてゐる事を、とんちんかん[#「とんちんかん」に傍点]に口先で話し合つては、又自分の勝手な話題の方へ相手を引つ張つてゆかうとしてゐた。みのるはその兩人《ふたり》が一人合點の話を打突《ぶつつ》け合つてゐるのを聞いてゐると面白かつた。
その内に簑村の夫人が歸つて來た。昔の女形《をんながた》にあるやうな堅い感じの美しい人であつた。又其所へ若い露國人が來てこの夫人に踊りの稽古をして貰つたりした。
みのるは逆上《のぼせ》きつた顏をして、夜おそくまで引き留められてゐた。さうして又大學生に連れられてこの家を出た。歸る時一所に出て來た有野文學士と、みのるは暗い路次の外れで挨拶して別れた。
家へ歸つた時義男は二階にゐた。其所に坐つたみのるを見た義男は、その逆上《のぼせ》の殘つた眼の端にこの女が亂れた感情をほのめかしてゐる事に氣が付いた。義男はこの頃にない女に對する嫉妬を感じながらみのるが何と云つても默つて居た。
「私が入つて行つた時にね、簑村といふ人は上《あが》り端《はな》の座敷の隅に向ふを向いて立つてゐたの。それがすつかり私の方から見えてしまつたの。」
みのるはこればかりをくり返して一人で笑つてゐた。
その晩みのるは不思議な夢を見た。それは木乃伊《みいら》の夢であつた。
男の木乃伊と女の木乃伊が、お精靈《しやうらい》樣の茄子の馬の樣な格好をして、上と下とに重なり合つてゐた。その色が鼠色だつた。さうして木偶《でく》見たいな、眼ばかりの女の顏が上に向いてゐた。その唇がまざ/\と眞つ赤な色をしてゐた。それが大きな硝子箱の中に入つてゐるのを傍に立つてみのるが眺めてゐた夢であつた。自分はそれが何なのか知らなかつたのだが、誰だか木乃伊だと教へた樣な氣がした。
朝起きるとみのるはおもしろい夢だと思つた。自分が畫を描く人ならあの色をすつかり描き現して見るのだがと思つた。さうしてあれは木乃伊だといふ意識がはつきりと殘つてゐたのが不思議であつた。
「私はこんな夢を見た。」
みのるは義男の傍に行つて話をした。さうして「これは何かの暗示にちがひない。」と云ひながら、その形だけを描かうとして机の前へ行つた。
「夢の話は大嫌ひだ。」
然う云つた義男は寒い日向で痩せた犬の身體を櫛で掻いてゐた。
底本:「田村俊子作品集 第1巻」オリジン出版センター
1987(昭和62)年12月10日発行
底本の親本:「木乃伊の口紅」牧民社
1914(大正3)年6月15日発行
初出:「中央公論」中央公論社
1913(大正2)年4月
※「場」と「塲」の混在は、底本通りです。
入力:小鍛治茂子
校正:小林繁雄
2006年9月15日作成
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