たちの低級な趣味の中に自分を輕く落して突き交ぜやうとする努めの爲にだん/\疲れてきた。清月にゐる間の自分を省みると、そこには蓮葉《はすつぱ》な無教育な女が自分になつて現はれてゐた。
もう一とつ厭な事があつた。
みのるの役のワキ役になる女優に録子《ろくこ》といふのがゐた。みのるよりも年嵩《としかさ》で舊俳優の中から出てきた人だつた。目の大きな鼻の高い役者顏の美しい女であつた。みのるはこの録子と一所にゐる間は始終この女の極く世間摺れした心から妙に自分と云ふものを壓し付けられる樣な自分の感情の沮喪《そさう》の苦しみがつゞくのであつた。録子は女役者にもなれば藝妓にもなると云ふ樣に世間を渡り歩いてきた氣の強い意地つ張りが、誰に向つても自分の心持に反《そ》りを打たして、相手をぐいと押|退《の》ける樣な態度を見せた。みのるはそれにぢり/\して、この録子を恐れた。そうしてワキの録子がみのるの仕科《しぐさ》の上につけ/\と注文をつけたりしても、みのるは自分の藝術の權威を感じながらこの録子に向つては言葉を返す事が出來なかつた。
みのるは小供の頃小學校へ通ふ樣になつてから、何年生になつてもその同じ級のうちにきつと自分を苛める生徒が一人二人ゐた。みのるは毎朝何かしら持つて行つてその生徒に與へてはお世辭をつかつた事があつた。そうして學校へ行くのがいやで堪らない時代があつた。丁度今度の録子に對するのがそれによく似た感じであつた。
録子は女主人公の戀人の夫人をする事になつてゐた。行田も酒井も「あれでは困る。」と云つて、その古い芝居に馴らされてしまつたそうして頭腦のない録子に手古摺《てこず》つてゐたけれ共、録子はそんな事には平氣であつた。そうして演劇をするについては一生懸命だつた。みのるは遂々《たうとう》この録子に負けてしまつた。そうして其役を捨てると云ふ事を行田に話した。みのるはその時泣いてゐた。
「然うセンチメンタルになつては困る。今あなたに廢《や》められては困る。」
口重《くちおも》な行田は一とつことを繰返しながら酒井を連れて來た。酒井は柱のところに中腰になつて、
「今あなたがそんな事を云つては芝居がやれなくなりますから何卒《どうぞ》我慢してやつて頂きたい。あなたの技藝は我々が始終賞めてゐるのですから、我々の爲にと思つて一とつ是非奮發して頂きたい。私の方の學校で今ヘツダを演つてる女生がありますが、それにもあなたの今度の技藝に就いて話をしてゐる位です。是非それは思ひ返してやつて頂き度い。」
酒井は如才なくみのるをなだめた。
けれどもみのるは何うしても厭になつてゐた。
この劇團の權威をみとめる事が出來なくなつたのと同時に、みのるは自分の最高の藝術の氣分をかうした境で揉み苦茶にされる事は、何うしても厭だといふ高慢さがあくまで募つてきて、誰の云ふ事にも從ふ氣などはなかつた。明日から稽古に出ないと云ふ決心でみのるは歸つて來てしまつた。
けれどみのるの眼の前には直ぐ義男と云ふ突支棒《つつかひばう》が現はれてゐた。この話をしたら義男はきつと自分に向つて、口ばかり巧者で何も遣り得ない意氣地のない女と云ふ批判を一層強くして、自分を侮るに違ひないとみのるは思つた。けれ共矢つ張り義男にこの事を話すより他《ほか》なかつた。
「よした方がいゝだらう。」
義男は簡單にかう云つた。さうしてみのるが想像した通りを義男はみのるに對して考へてゐた。
「私はもう何所へもゆきどころがなくなつて終《しま》つた。」
みのるは然う云つて仰向きながら淋しさうな顏をした。
十一
みのるの爲《し》た事は、他から考へると唯安つぽい人困らせに過ぎなかつた。つまりは矢つ張り出なければならなかつた。
初め義男はみのるに斯う云つた。
「自分から加入を申込んでおいて、又勝手によすなんてそれは義理がわるい。何うしても君がいやだといふなら、僕が君の出勤を拒んだ事にしておいてやらう。」
義男は然うして劇團の事務所へ斷りを出した。劇團の理事も行田もその爲めに義男を取り卷いてみのるの出勤をせがんで來た。
劇團の方ではみのるに代へる女優を見附ける事は造作のないことであつたかも知れないが、これだけのむづかしい役の稽古を積み直させるだけの日數の餘裕がなかつた。開演の日はもう迫つてゐた。經營の上の損失を思ふと、小山は何うしてもみのるに出勤して貰はねばならなかつた。行田も義男にあてゝ長い手紙をよこした。
「みつともないから好い加減にして出た方がいゝね。僕も面倒臭いから。」
義男は斯う云つて、いつも生きものを半分|弄《なぶ》り殺しにしてその儘抛つておく樣なこのみのるの、ぬら/\した感情を厭はしく思つた。然うしてこの女から離れやうとする心の定めがこの時もその眼の底に閃いてゐた。二三日してからみのるは再び清月へ通ひ出した。
演劇の上でみのるの評判は惡るくはなかつた。誰もこの新らしい技藝を賞めた。けれども又、同時に誰が見てもみのるの容貌《きりやう》は舞臺の人となるだけの資格がないと云ふことも明らかに思はせた。
藝術本位の劇評はみのるの技藝を、初めて女優の生命を開拓したものとまで賞めたものもあつた。けれども單に芝居といふ方から標準を取つて行つた劇評は、みのるを惡るく云つた。その態度が下品で矢塲女のやうだと誹つたものもあつた。みのるの容貌はほんとうに醜いものであつた。無理に拾へば眼だけであつた。外の點では唯|普通《なみ》の女としても見られないやうな容貌であつた。
みのるは自分の容貌の醜いのをよく知つてゐた。それにも由らず舞臺へ上り度いといふのは唯藝術に對する熱のほかにはなかつた。そこから火のやうに燃えてくる力がみのるを大膽に導いて行くばかりであつた。けれども女優は――舞臺に立つ女はある程度まで美しくなければならなかつた。
女は、そこに金剛のやうな藝術の力はあつても、花のやうな容貌がなければ魅力の均衡《つりあひ》は保たれる筈がなかつた。みのるの舞臺は、ある一面からは泥土《どろ》を投げ付けられる樣な誹笑《そしり》を受けたのであつた。
みのるはそこにも失望の淵が横つてゐるのを、はつきりと見出した。みのるはある日演劇が濟んでから、雨の降り止んだ池の端を雨傘を提げて歩るいて來た。今夜も棧敷《ざしき》からみのるの舞臺を見てゐた義男が一所であつた。
みのるは此時程義男に對して氣の毒な感じを持つた事はなかつた。義男は此演劇が初まつてから毎晩芝居へ通つて來た。然うしてその小さな眼のうちは、他《はた》の批評を一句も聞き漏らすまいといつもおど/\と慄《ふる》へてゐた。義男の友達も多勢見に來た。これ等の人の前で舞臺の美しくない女を見ながら平氣な顏をしてゐなければならないと云ふのは、この男にしては非常な苦痛であつた。技藝は拙くとも舞臺の上で人々を驚かせるほどの美を持つた女を有してゐる事の方が、この男の理想であつた。義男はその爲に毎日出て行くある群れの塲所にゐても絶へず苦笑を浮べてゐなければならない樣な、苦《にが》い刺戟に出《で》つ會《くわ》すのであつた。
義男も疲れてゐた。二人の神經はある悲しみの際に臨みながら、その悲しみを嘲笑の空《くう》の中にお互に突つ放さうとする樣な昂奮を持つてゐた。
「今夜はどんなだつたかしら、少しはうまく行つて。」
「今夜は非常によかつた。」
二人はかう一と言づゝを言ひ合つたきりで歩いて行つた。毎夜舞臺の上で一滴の生命の血を絞り/\してる樣な技藝に對する執着の疲れが、かうして歩いて行くみのるを渦卷くやうに遠い悲しい境へ引き寄せていつた。その美しい憧憬《あこがれ》の惱みを通して、誹笑の聲が錐のやうにみのるの燃る感情を突き刺してゐた。池の端の灯を眺めながら行くみのるの眼はいつの間にか涙|含《ぐ》んでゐた。
「全く君は演劇の方では技量を持てゐるね。僕も今度はほんとうに感心した。けれども顏の惡るいと云ふのは何割もの損だね。君は容貌の爲めに大變な損をするよ。」
義男はしみ/″\と斯う云つた。義男は自分の女房を前において、その顏を批判するやうな機會に出逢つた事がいやであつた。同時に、みのるがそのすべてを公衆に曝すやうな機會を作り出した事に不滿があつた。
「よせばいゝのに。」
義男は斯う云ふ言葉を繰り返さずにはゐられなかつた。
十二
僅な日數で芝居は濟んでしまつた。みのるが鏡臺を車に乘せて家へ歸つた最後の晩は雨が降つてゐた。一座した俳優たちが又長く別れやうとする終りの夜には、誰も彼も淡い悲しみをその心の上に浮べてゐた。男の俳優は樂屋で使つたいろ/\の道具を風呂敷に包んだり、鞄に入れたりして、それを片手に下げながら帽の庇に片手をかけて挨拶し合つてゐた。この劇團が解散すれば、又何所へ稼ぎに行くか分らないと云ふ放浪の悲しみがそのてん/″\の蒼白い頬に漂つてゐた。しつかりした基礎《もとゐ》のないこの新しい劇團は、最《も》うこれで凡が滅びてしまふ運命を持つてゐた。何か機運に乘じるつもりで、斯うして集まつた俳優たちは、又この手から放れて然うして矢つ張り明日からの生活の糧をそれ/″\に考へなければならなかつた。みのるは車の上からかうして別れて行つてしまつた俳優たちの後を見送つた。
芝居の間みのるが一番親しんだ女優は早子であつた。新派の下つ端の女形をしてゐると云ふ可愛らしい早子の亭主が、みのると合部屋の早子のところへ能く來てゐた。早子には病氣があつた。昨晩血を吐いたと云ふ樣な翌《あく》る日は、傍から見てゐてもその身體がほそ/″\と消えていつて了うかと思ふ樣な、力のないぐつたりした樣子をしてゐた。毎日喧嘩ばかりしてゐるといひながら、矢張り亭主がくると鬘《かつら》を直してやつたり、扮《つく》つた顏を見直してやつたりしてゐた。今度の給金の事でよく小山と紛《もつ》れあつてゐたのもこの早子だつた。みのるはこの早子が忘られなかつた。別れる時その内に遊びに行くと云つた早子は何日になつてもみのるの許へ來なかつた。
また、小さな長火鉢の前に向ひ合つて、お互の腹の底から二人の姿を眺め合ふやうな日に戻つてきた。
何時の間にか秋が深くなつて、椽の日射しの色が水つぽく褪めかけてきた。さうして秋の淋しさは人の前髮を吹く風にばかり籠めてゞもおく樣に谷中《やなか》の森はいつも隱者のやうな靜な體を備へてぢつとしてゐた。その森のおもてから目に見えぬほどづゝ何所《どこ》からともなく青い色が次第に剥げていつた。
二人の生計《くらし》は益々苦しくなつてゐた。寒くなつてからの着料なぞは兎ても算段の見込みが立たなかつた。家の持たてには二人の愛情が濃い色彩を塗つてゐた爲に貧弱な家財道具にもさして淋しさを感じなかつたものが、別々なところにその心を据えて自分々々をしつかりと見守つてゐる樣なこの頃になつては、寒さのとつつき[#「とつつき」に傍点]のこの空虚《からつぽ》な座敷の中は唯お互の心を一層|荒《すさま》しくさせるばかりだつた。それを厭がつてみのるは自分で本などを賣つて來てから、高價《たか》い西洋花を買つて來て彼方此方《あつちこつち》へ挿し散らしたりした。然うしたみのるの不經濟がこの頃の義男には決して默つてゐられる事でなかつた。
まるで情人と遊びながら暮らしてゞもゐる樣な生活は、どうしても思ひ切つて了はねばならないと義男は思ひつゞけた。七十を過ぎながら小遣ひ取りにまだ町長を勤めてゐる故郷の父親の事を思ふと義男はほんとに涙が出た。只の一度でも義男は父親の許へ菓子料一とつ送つた事はなかつた。義男だといつても自分の力相應なものだけは働いてゐるに違ひなかつた。それが何時も斯うして身滲《みじ》めな窮迫な思ひをしなければならないといふのは、只みのるの放縱がさせる業《わざ》であつた。
義男は又、昔の商賣人上りの女と同棲した頃の事が繰り返された。その頃は今程の收入がなくつてさへ、何うやら人並な生活をしてゐた。――義男はつく/″\みのるの放縱を呪つた。
この女と離れさへすれば、一度失つた文界の仕事ももう一度得られるやう
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