》い女だわね。」
みのるは義男の袖を引つ張つた。
「あれが轆轤《ろくろ》つ首だらう。」
義男も笑ひながら覗いて見た。上の看板に、肩衣をつけた女の身體からによろ/\と拔け出した島田の女の首が人の群集を見下してゐる樣な繪がかいてあつた。義男はかうした下等な女藝人の白粉《おしろい》が好きであつた。その女の眼に義男は心を惹かれながら又歩きだした。
二人は三河島の方を見晴らした崖の掛茶屋の前に廻つて來た。葭簀《よしず》を張りまわした軒並びに鬼灯《ほゝづき》提燈が下がつて、サイダーの瓶の硝子や掻きかけの氷の上にその灯の色をうつしてゐた。そこで燒栗を買つた義男はそれを食べながら崖の下り口に立つて海のやうに闇い三河島の方を眺めてゐた。この祭禮の境内へ入つてくる人々が絶えず下の方から二人の立つてる前を過《よぎ》つて行つた。
「あなたに相談があるわ。」
みのるは云ひながら、境内の混雜を見捨てゝ崖から下へおりやうとした。
「何だい。」
「もう一度芝居をやらうと思ふの。」
「君が? へえゝ。」
二人は崖をおりて踏切りを越すと日暮里の方へ歩いて出た。みのるは歩きながら酒井や行田のやらうとしてゐる新劇團へ入るつもりの事を話した。行田は義男の知つてゐる人だつた。まだ外國から歸つて來たばかりの新らしい脚本家であつた。その人の手に作られた一と幕物の脚本を上塲する事に定《き》まつてゐるのだが、そのむづかしい女主人公を演る女優がなくつて困つてゐると、晝間小山の云つた事にみのるは望みを繋いでゐた。けれども其所までは話さずに舞臺に出ても好いか惡るいかを義男に聞いて見た。義男は默つて燒栗を食べながら歩いてゐた。
義男はまだ結婚しない前にみのるが女優になると云つて騷いだ事のあるのは知つてゐた。けれどもどんな技倆がこの女にあるのかは知らなかつた。その頃みのるがある劇團に入つて何か演《や》つた時に一向噂のなかつたところから考へても、舞臺の上の技巧はあんまり無さそうに思はれた。それにみのるの容貌《きりやう》では舞臺へ出ても引つ立つ筈がないと義男は思つてゐた。外國の美しい女優を見馴れた義男は、この平面な普通《なみ》よりも顏立ちの惡るいみのるが舞臺に立つといふ事だけでも恐しい無謀だとしきや思はれなかつた。
「今になつて何故そんな事を考へたんだね。」
義男は燒栗を噛みながら斯う聞いた。
「先《せん》から考へてゐたわ。唯好い機會がないから我慢してゐたんだわ。」
義男は舞臺の上のみのるを疑つて中々それに承知を與へなかつた。
「何故いけないの?」
みのるはもう突つかゝり調子になつてゐた。
裸になつた義男は椽側に寐そべつて煙草をのんでゐた。みのるはその前にぶつつりと坐つて※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]え切らない義男の容體を眺めてゐた。
「そんな悠長な生活ぢやないからな。」
義男は然う云つて考へてゐた。みのるが演劇に手腕を持つてゐて、それで澤山な報酬が得られる仕事とでも云ふのなら宜《い》いけれ共、海とも山とも付かない不安な界《さかい》へ又踏み込んで行つて、結局は何方《どつち》へ何《ど》う向き變つて行くか分らないと云ふ始末を思ふと、義男には却つてお荷物であつた。それに自分が毎日出てゆくある小社會の群れに對しても、それ等の人の惡るい仲間たちに舞臺の上の美しくない而《し》かも技藝に拙い女房を見られる事は義男に取つては屈辱だつた。そんな事をみのるが考へてる暇に常收入のある職業を見付けて自分に助力をしてくれる方が義男には滿足だつた。
生活の事も思はずに、斯うして藝術に遊ばう遊ばうとする女の心持が、又|何日《いつか》のやうに憎まれだした。
「君はだまつて書いてゐればいゝぢやないか。」
「何を書くの。」
「書く樣な仕事を見付けるさ。」
「文藝の方ぢやいくら私が考へても世間で認めてくれないぢやありませんか。今度はいゝ時機だからもう一度演藝の方から出て行くわ。私には自信があるんですもの。それに酒井さんや行田さんが、ステージマネジヤならきつとやれるわ。」
みのるは眼を輝かして斯う云つた。みのるは實は筆の方に自分ながら愛想を盡かしてゐたのであつた。それはこの間の仕事によつて自分で分つたのであつた。ひそかに筆の上に新らしい生命を養ひつゝあるとばかり自負してゐたみのるは、この間の仕事にそれがちつとも現はれてこなかつた事を省みると、自分ながら厭になつてゐた。けれ共義男には然うは云はなかつた。何故ならあの時にみのるは義男に向つて自分の大切な筆をそんな賭け見たいな事に使はないと云つて罵り返したのであつた。その自分の言葉に對してもみのるには其樣《そんな》おめ/\した事は義男の前で云へなかつた。
自分ながら筆の上に思ひを斷つ以上、もう一度舞臺の方で苦勞がして見たかつた。新聞で見た新劇團の女優募集の記事はこの塲合のみのるには渡りに船であつた。
「僕は君は書ける人だと思つてゐる。だからその方で生活を助けたらいゝぢやないか。第一そんな事をするとしても君の年齡はもうおそいぢやないか。」
「藝術に年齡がありますか。」
「そりや藝術の人の云ふ事だ。君はこれからやるんぢやないか。」
「それならよござんす。私は私でやりますから。あなたの爲の藝術でもなければあなたの爲の仕事でもないんですから。私の藝術なんですから。私のする仕事なんですから。然う云ふ事であなたが私を支へる權利がどこにあります。あなたがいけないと云つたつて私はやるばかりですから。」
斯う云ひきるとみのるの胸には久し振な慾望の炎がむやみと燃え立つた。そうして自分を見縊《みくび》るこの男を舞臺の上の技藝で、何でも屈服さしてやらなければならないと思つた。
「そんな準備の金は何所から算段するんだ。」
「自分で借金をします。」
十
みのるを加入《いれ》ると云ふ意味のはがきが小山の許から來てから、間もなく本讀みの日の通知があつた。
みのるの前に斯うして一日々々と新たな仕事の手順が捗《はかど》つて行くのを見てゐると、義男は氣が氣ではなかつた。平氣な顏をして、何所か遠いところに引つ掛つてゐる望みの影を目をはつきりと開いて見据えてる樣なみのるの樣子を、義男は傍で見てゐるに堪《こら》へられない日があつた。
「舞臺の上が拙《まづ》くつてみつともなければ、僕はもう決して社へは出ないからな、君の遣りかた一とつで何も彼も失つてしまうんだからそのつもりでゐたまへ。」
それを聞くとみのるは義男の小さな世間への虚榮をはつきりと見せられた樣になつて不快《いや》な氣がした。何故この男は斯う信實がないのだらうと思つた。少しも自分の藝術に向つての熱を一所になつて汲んでくれる事を知らないのだと思つて腹が立つた。そうしてその小さな深みのない男の顏をわざと冷淡に眺めたりした。
「ぢや別れたらいゝぢやありませんか。然うすりやあなたが私の爲に耻ぢを掻かなくつても濟むでせう。」
こんな言葉が今度は女の方から出たけれども今の義男はそれ程の角《かど》を持つてゐなかつた。女が派出な舞臺へ出るといふ事に、女へ對するある淺薄《あさはか》な興味をつないで見る氣にもなつてゐた。
「君にそれだけの自信があればいゝさ。」
義男は然う云つて默つた。
清月でみのるは酒井にも行田にも逢つた。何方もみのるの見知り越しの人であつた。酒井といふのは、一方では、これから理想の演劇を起そうとして多くの生徒をごく内容的に養成してゐる或る博士のもとに働いてゐる人であつた。みのるはこの酒井のハムレツトを見て、その新らしい技藝に醉つたことがあつた。
眼と鼻のあたりに西洋人らしい俤はあつたが丈《せい》の小さい人であつた。行田は圖拔けて背の高い人であつた。いつも眼の中に思想を蓄へてると云ふ樣な顏付をしてゐた。笑つても頭の奧で笑つてる樣なぬつとした容態があつた。
鋭くしやんとした酒井と、重く屈《かゞ》み加減になつてる行田とはいつも兩人《ふたり》ながら膝前をきちりと合はせて稽古の座敷の片隅に並んで座つてゐた。
その中を例の小山は睫毛《まつげ》の長い愛嬌に富んだ眼を隅から隅へ動かしながら、その小さな身體をちよこ/\と彈ましてゐた。
みのるの外に女優が二三人ゐた。どれも若くて美しかつた。早子《はやこ》と云ふのは顏は痩せてゐたけれども目を瞑《つぶ》つたりすると印象の強い暗い蔭が漂つた。そうして口豆《くちまめ》な女だつた。艶子《つやこ》と云ふのがゐた。顏の輪廓の貞奴に似た高貴な美しさを持つてゐた。その中にゐて、みのるは矢つ張り行田の手で作られた戯曲の女主人公をやる事に定まつてゐた。
その女主人公は音樂家の老孃であつた。それが不圖戀を感じてから、今まで冷めたく自分を取卷いてゐた藝術境から脱けて出てその戀人と温い家庭を持たうとした。その時にその戀人の夫人であつた女から嫉妬半分の家庭觀を聞いて、又淋しくもとの藝術の世界に一人して住み終らうと決心する。と云ふのであつた。
他の俳優たちは誰もその脚本を笑つてゐた。他の俳優といふのは壯士俳優の三流ぐらゐなところから、手腕《うで》のあるのをすぐつて來た群れであつた。その中からこの脚本に現はれた人物に扮する樣に定められた男が二人ほどあつた。その頭では解釋のしきれないむづかしい言葉が續々と出てくるので閉口して笑つてゐた。
みのるが詰めて稽古に通ふ樣になつた時はもう冷めたい雨の降りつゞく秋口《あきぐち》になつてゐた。雨の降り込む清月の椽に立つて、べろ/\した單衣一枚の俳優たちが秋の薄寒さをかこつ樣な日もあつた。朝早く清月に行つてみのるが一人で臺詞《せりふ》をやつてる時などに、濡れた外套を着た酒井が頸元《えりもと》の寒そうな風をして入つて來る事もあつた。お互の挨拶の息が冷めたい空氣にかぢかんでる樣な朝が多くなつてゐた。
行田も酒井もいつも朝早く定めた時刻までには出て來てゐた。そうして怠けた俳優たちがうそ/\集つてくるまで、二人は無駄な時間を空に費してゐる事が毎日の樣であつた。藝術的の氣分に緊張してゐるこの二人と、旅藝人のやうに荒んだ、統一のない不貞《ふて》た俳優たちとの間にはいつもこぢれ[#「こぢれ」に傍点]た紛雜《ふんさつ》[#ルビの「ふんさつ」はママ]が流れてゐた。酒井は殊にぽん/\と怒つて、藝人根性の主張をやめないその俳優たちを表面から責めたりした。酒井の譯したピネロの喜劇は全部この不統一な俳優たちの手で演じられる事になつてゐた。その稽古が少しもつまないと云つて、酒井は「ちつとも藝術品になつてゐない。然うてん/″\ばら/\では仕方がない。」と云つて一人でぢり/\してゐた。
けれども演劇で飯を食べてるこの連中は、酒井などから一々臺詞にまで口を入れられる事に就いて、明らかな惡感《あくかん》を持つてゐた。俳優たちは沈默の反抗をそのふところ手の袖に見せて、酒井の小言の前で氣まづい顏をしてゐる事が多かつた。
「初めからのお約束ですから、少々氣に入らない事があつても一致してやつて頂かなけりや困ります。どうでせう皆さん。もう日もない事ですから一とつ一生懸命になつて臺詞を覺えて頂く譯には行きませんか。」
酒井の傍に坐つた小山が、こんな事を云つて口に皺を寄せながら向ふに集まつた俳優たちを眺めてゐる事もあつた。
その中で女優ばかりは誰も彼《か》も評判がよかつた。皆が舞臺監督の云ふ事をよく聞いて稽古を勵《はげ》んでゐた。
「こんなに女優が重い役をやると云ふのは今度が初めだから、一とつ思ひ切つた立派な藝を見せていたゞき度い。女優の技藝によつてこの新劇團の運命が定まるやうなものだと思つて充分に演《や》つて頂きたい。女優と云ふものも馬鹿に出來ないものだと云ふ事を今度の興行によつて世間へ見せて頂きたい。」酒井は斯う云つて女優たちを上手におだてた。
その中にゐて、みのるには例の惡るい癖がもう初まつてゐた。自分の氣分がこの俳優の群れに染まないと云ふ事がすつかりみのるを演劇の執着からはなしてしまつた事であつた。みのるは芝居をする事がもう厭になつてゐた。そうして、何時もこの俳優
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