んよ。けれども私が今まで含蓄しておいた筆はこんなところに使はうと思つたんぢやないんですからね。あなたが何でも働けつて云なら電話の交換局へでも出ませうよ。けれどもそんな賭け見たいな事に私の筆を使ふのはいやですから。」
義男は突然《いきなり》、手の傍にあつた煙草盆をみのるに投げ付けた。
「少しも君は我々の生活を愛すつて事を知らないんだ。いやなら止せ。その云ひ草はなんだ。亭主に向つてその云ひ草はなんだ。」
義男は然う云ひながら立上つた。
「そんな生活なら何も彼《か》も壞しちまへ。」
義男は自分の足に觸つた膳をその儘蹴返すと、みのるの傍へ寄つて來た。みのるはその時ほど男の亂暴を恐しく豫覺した事はなかつた。「何をするんです。」と云つた金を張つたやうな細い透明なみのるの聲が、義男の慟悸の高い胸の中に食ひ込む樣に近くなつた時に、みのるは有りだけの力をその兩腕に入れて義男の胸を向ふへ突き返した。そうしてから、初めてこの男の恐しさから逃れるといふ樣な心持で、みのるは勝手口の方から表へ駈けて出た。
外はまだ薄暮の光りが全く消えきらずに洋銀の色を流してゐた。殊更な闇がこれから墓塲全體を取り繞《めぐ
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