檜葉《ひば》の立木に包まれた薄鼠塗りの洋館の建物の二階が横向きに見えるのを見上げながら義男は「何も要らないからせめて理想の家だけは建てたい。」といつも云つた。みのるが頻りに髮を弄《いぢ》り初めたのもその頃であつた。みのるは一日置きのやうに池の端の髮結のところまで髮を結にゆく癖がついた。みのるの用箪笥の小抽斗《こひきだし》には油に染《そ》んだ緋絞りのてがらの切れが幾つも溜つてゐた。
 こんな日の間にも粘りのない生一本な男の心の調子と、細工に富んだねつちりした女の心の調子とはいつも食ひ違つて、お互同士を突つ突き合ふやうな爭ひの絶えた事はなかつた。女の前にだけ負けまいとする男の見得と、男の前にだけ負けまいとする女の意地とは、僅の袖の擦り合ひにも縺《もつ》れだして、お互を打擲《ちやうちやく》し合ふまで罵り交はさなければ止まないやうな日はこの二人の間には珍らしくなかつた。みのるの讀んだ書物の上の理解がこの二人に異つた味ひを持たせる時などには、二人は表の通りにまで響ける樣な聲を出して、それが夜の二時であつても三時であつても構はず云ひ爭つた。そうして、終ひに口を閉ぢたみのるが、憫れむやうな冷嘲《あざ
前へ 次へ
全84ページ中32ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
田村 俊子 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング