からは、人間の毛髮の一本々々を根元から吹きほぢつて行くやうな冷めたい風が吹いて來た。自分の前に横たはつてゐる小路の右を眺め左を見返つてゐたみのるは、二三軒先きの下宿屋の軒燈が蒼白い世界にたつた一とつ光りを縮《ちゞ》めてゐるやうな淋しい灯影ばかりを心に殘して内へ入つた。
義男が歸つて來た時はばら/\した小雨が降り初めてゐた。普通よりも小さい義男の頭と、釣合ひのとれない西洋で仕立てた肩幅の大きな洋服の肩をみのるの方に向けて、義男は濡れた靴を脱いだ。垂れた毛を撫で上げながら明るい茶の間へはいつて來た義男は、その儘奧の座敷まで通つてしまつて、其所で抱へてゐた風呂敷包みと一緒に自分の身體も抛り出すやうに横になつた。
「駄目。駄目。何所へ行つても原稿も賣れなかつた。」
「いゝわ。仕方がないわ。」
みのるは義男が風呂敷包みを持つて歸つて來たので、きつと駄目だつたのだと思つてゐた。何時までも歩きまわつてゐた事が、みのるには雨に迷つた小雀のやうに可哀想に思はれた。
「お腹《なか》は?」
「何も食べないんだ。何軒本屋を歩いたらう。」
義男は腹這になつて疊に顏を押付けてゐるので、その聲が物に包まれて
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